初心俳句会から 上達のことなど

話を分かりやすくするために、具体的な例を話すことより、モデルを使って語ろうと思います。
  
物事に対する対処法は色々あると思います。と同時に共通する過程があると思います。
例えば、「ご飯を炊いて食べる」ということをモデルにしましょう。
   
お米を洗う、お釜の中にお米を入れ、適切な量の水を入れる。火にかける。火加減をする。
(電気釜だと水を入れてスイッチを入れるということになりましょう。)炊き上がる。
適切な量を、茶わんや皿に盛る。
さてここからです。ある文化では、箸で食べます。ある文化では、手でつかんで食べます。
ある日まで、ご飯を盛りつけた後、それぞれが自分の部屋でご飯を食べていました。
ところがある日一緒にご飯を食べることになりました。
そこで、ご飯を食べるという言葉は同じでも、その行為のなかみが違っていたことが初めてわかります。
そして、相手を訝しく思ったりします。なんでそんなことするの?と。
   
あくまでこれは事例です。
   
共同生活を始め、細かく観察を始めると、洗濯の手順、干し方、人それぞれです。食器の片付け方、洗い方、人それぞれです。
    
ましてや、趣味、老後の過ごし方についての考え、病気や死に対する対し方、子育ての方針、長年暮らせば、共同の過程は増えるその一方で、要所の違いは実は年々大きくなっているように私は思います。
   
その違いを許容する人と、違いを感じ取ることが出来ずに、当然一緒だと思い込んでいる人に分かれていくのだと思います。お互いがお互いに、一緒だろう、通じているだろう思い込んでいて気付かない、というのも多いかもしれません。
     
一方が気付き、一方が思い込んでいるという組み合わせもあるでしょう。
      
諦めたり、許容したり、若ければ、別れたりするかもしれません。
     
「離婚した夢からさめた扇風機」
      
何処に「切れ」を入れるかで、意味が違ってきます。

      
「上達」という言葉は、日常生活の中でもよく使われる言葉です。では改めて、「上達」とはどういうことか? 上達はどのようにしてなされるか?
    
一つの答えは、「ちがいがわかること」
もっと詳しく表現すると、「ちがいを生み出しているちがい」がわかること。
       
 俳句における対象観察であれ、心理学における対象観察であれ、あるいは野球でストライクとボール、カーブと直球を見分けるのであれ、先ずは心身ともに集中する力を身につけること。だから、止観瞑想の内の止、シャマタ瞑想が推奨される。
      
集中してみていると、青蛙の眼の縁が金色であることに気付く。
集中してみていると、男性の低い声がパニックの引き金になっていることに気付く。
集中してみていると、右肩が一旦下がってから投げるときカーブであることに気付く。
     
でもこれはまだ、ちがいがわかるだけのこと。
いつものデパートモデルを使えば、地下一階のフロアで、お茶売り場を見つけ、さらにそこには紅茶も日本茶もあることを知る。紅茶を購入し、次はカップとソーサーを探す。どんなに水平に動き回っても、そのフロアーでは見つからない。混乱をする。混乱の中で、ある人は階段に気付く。そして縦に動く。
     
単語が集まって文章を創り、文章が集まって文脈を創る。
それだけではない。
同時に、先ず文脈があって、文章が選ばれる。その文章の中でさらに単語が選ばれる。推敲。
創発
      
俳句17文字には、その背後に文章、文脈がある。
よく観ないと、その文章がよめない。
        
「偏倚する原子蛍群れを発つ」
       
<古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ>
 
<格に入りて格を出でざる時は狭く、また、格に入らざる時は邪路にはしる。格に入り、格を出でてはじめて、自在を得べし。>
 
俳諧は吟呻の間の楽しみなり。これを紙に写す時は、反古に同じ。>