フォーカシングと止観瞑想 私の場合

少年期の頃、漠然とした焦り感やモヤモヤした訳の分からない感情を感じることがありました。そんな時、私は一人静かな場所で、どうして自分はこんなに焦っているんだろう、このもやもやした感じは何処からきているんだろう、とその感情の生起をみようとしました。
  
何時間か見続け、考え続け、その源流にたどり着いた感じがしたとき、あるいはまるっきりその流れの外に出て上から眺めている感じがしたとき、とてもすっきりしました。
 
また、アイデアとかイメージ、湧き上がる想いを文章に表現しようとして、適切な言葉が見つからない状態から、色々書いては言葉を替えていき、ぴったりした言葉を見つけたときは、やはりすっきりしました。
 
その後青年期の頃に、いくつかのグループセミナーでフォーカシングの場面に出会うことがありました。その場で、フォーカシングを受けている人が、胸の中でモヤモヤする、お腹の中でモヤモヤする、という表現をしていましたが、自分もモヤモヤした感じという表現をしたけれど、からだの具体的な部分で感じるといったものではないなあ、という感想を持ちました。
 
それで、その後はフォーカシングについては、あまり興味を持ちませんでした。
 
その後、止観瞑想を学び、止瞑想(シャマタ瞑想)で、呼吸に注目したり、筋肉の動き、感覚の生滅に注目したりするときちらっとフォーカシングのことがよぎることがありましたが、接点は感じませんでした。
 
フォーカシングという言葉になじみのない人のために、少し解説します。
ウィキペディアによると
<フォーカシング(focusing)とは、
臨床心理学の用語。ユージン・ジェンドリンにより発見された、人間の体験過程とその象徴化の過程、または、それを促すためにジェンドリンが体系化した技法をいう
ジェンドリンは、カウンセリングの成功要因を探る研究の中から、クライエントが自分の心の実感に触れられるかどうかが重要であることを見いだした。そこからジェンドリンは、心の実感に触れるための方法を、クライエントに教える必要があると考え、そのための理論として体験過程理論を構築し、具体的な技法としてフォーカシングを提唱した。
  
体験過程理論は、人の心の中に感じられ、刻一刻と変化し流動していく体験過程 (Experiencing) に関する理論である。体験過程は、意識と無意識の境界に注意を向けることで直接、身体的に感じられるものであり、体験過程の流れは、言葉などによって表現される、つまり象徴化されることによって、人が成長する方向へ向かって流れていく。しかし、人の意識が体験過程に向けられず、象徴化の機会が奪われると、体験過程は滞り、様々な心理的困難が生じてくる。>
と説明されています。
 
象徴化という言葉から、私はフロイトとかピアジェを思い浮かべます。
 
フロイトだと「無意識の意識化」、ピアジェだと「内言の外言化」
 
外言とは、他者とのコミュニケーションの道具として使っている言語のことで、内言とは、思考の道具として使用する言語のことです。
 
ピアジェ
<「内言」が先に発達して、そこから思考が生まれてそれに伴って「外言」が発達する>
<『内的な思考能力(認知能力)の発達』が先に起こって、その後に『外的なコミュニケーション能力・発話能力』が高まってくる>
とのべました。
それに対して、ヴィゴツキーは、
<「外言」が先で、その外言をもとに徐々に「内言」を獲得し、抽象的思考ができるようになる>と述べました。
 
私は言葉の獲得というのは一生続き、ピアジェのような「内言から外言への(生物学的)流れ」と、「外言から内言への(社会構成主義的)流れ」の両方、二重性があるように思っています。
   
私は、止観瞑想とフォーカシングの接点はあまり感じなかったと言いましたが、同じく身体を媒体としていても、止観瞑想・四念処瞑想の中で、例えば、身受心法の四念処のうち、身を観じるとき、ひたすら呼吸を観じ続けるのであって、違和感に対して分析をするわけではありません。

私の場合、あの漠然とした焦り感は、象徴化の機会を奪われることによってではなく、大抵、外言によって構成した自己概念・自己理想と現実体験の不一致からきています。