行動療法について 私の思い

本を読んでいると、あちこちで行動主義心理学や行動療法に対しての批判を目にすることがあります。
 
例えば、(少し古いですが)S.I.ハヤカワ著「ことばと人間」紀伊国屋書店 1980には
 
<心理学の行動主義の影響のもとに、育児の基本理念は条件付けだという考え方が生じた。すなわち子供は、好ましい習慣には都合の良いように、一方、悪い習慣にはそむくように条件付けられねばならず、この条件付けが非常に早期に始まれば、子どもはよりたやすく正しい習慣を身につけることになるというのである。この教条体系は、三十数年前に、極度に早期の排便のしつけや厳格な日課を突発的にはやらせる結果となった。赤ん坊は胸もはりさけんばかりに泣くだろうが、もし日課に従ってまだ授乳の時間でないとすると、赤ん坊は泣かされっぱなしにならねばならない。子供が生涯身につけていくことになる物事の好き嫌いは、まるで子供が電子計算機であるかのようにプログラム化されて送り込まれるのだった。>
 
例えば、テンプル・グランディンは、著書「動物感覚」のなかで
 
<とはいえ、私は行動主義心理学の敵だと思われたくない。断じて、敵ではない。 行動主義心理学者も動物行動学者も、動物の頭の中をのぞかないのだから、ある意味では、行動主義心理学者は動物行動学者とたいして変わらなかった。行動主義心理学者は実験室という環境に置かれた動物を観察して、動物行動学者は自然の環境にいる動物を観察した。どちらも、動物を外側から観察していた。
行動主義心理学者は、脳に立ち入ってはならないと断言して大きな誤りをおかしたが、環境に的をしぼったことは大きな進歩で、それは今日でも変わらない。行動主義心理学が登場するまでは、おそらく、だれも環境の重要性を理解していなかっただろう。いまだに理解していない人が多い。>
と書いています。
 
「外側からの観察」という言葉が端的に、行動療法を捉えているように思います。
 
私は、「行動療法」は、本来とてもストイックな姿勢の療法であると思っています。
観察することが難しい人間の「内面」を捨象し、観察し、前提を共有できる「外面」からの観察に基づいて課題の解決を試みる療法だと思っています。「内面」を否定しているのではなく、ストイックに「内面」については棚上げしていると。
 
Think globally, act locally. という表現がありますが
Think holistically, on complex system and on Nonlinear Science, act simplificationally (造語)on Linear Science.
と言い換えると、視点や態度としては、全体論的、複雑系的、非線形的に観ながら、具体的な行動としては、部分的に、具体的に、線型的に、シンプルに行うことの方が、課題の解決に結びつくように思います。
 
その実際に選択されている行動が、一つの理論仮説に基づく限られた方法であることの自覚を失ったとき、「行動療法」こそが唯一適切な療法だと思い込んだとき、様々な批判は妥当なのだと思います。
 
だから、自覚のある人、ストイックな人(ネオ・ロマンチックな人)は、自らの行為を「行動主義心理学」とは言わず、学習理論に基づく「行動療法」と呼ぶのではないでしょうか。
 
あともう一つ付け加えたいことは、今日ここで書いたことは「要素論」には基づいていないということです。「心」と「行動」を別々の要素とは前提していません。