森田療法と現代 (あるがままと全体論、階層論、行動分析学、ロマン

k1s2013-05-10

 精神分析学を創始したフロイト(1856〜1939)が生きた同じ時代に、日本国内での豊富な臨床経験と生活実践から、日本人医師(森田正馬 明治7年1874〜昭和13年1938)によって創始確立された心理療法があります。それが森田療法です。
森田療法は、東洋文化に根差した(全体論的な)心理療法でありながら、(要素論的な)西洋心理学に比べて、日本人にあまり知られずに来ました。しかし、「あるがまま」という言葉を軸に、混迷した現代人の課題解決に結びつく療法として注目を浴びています。今回(NPO熊野みんなの家心理学講座2013年6月)は、この森田療法を取り上げます。
 
テキストとして以下のものを使います。(こちらで用意します)

渡辺利夫 著 「神経症の時代 我が内なる森田正馬TBSブリタニカ
岩井寛  著 「森田療法」 講談社現代新書
        末期の癌、ほぼ失明状態の中で、口述によって書かれた本です。
岩井寛 口述 「生と死の境界線」松岡正剛構成 講談社
松岡正剛    千夜千冊 1325夜 森田療法 http://1000ya.isis.ne.jp/1325.html
倉田百三 著 「南無阿弥陀仏 法然親鸞の信仰」 講談社学術文庫
       若くして「愛と認識の出発」「出家とその弟子」などの著作で有名な作家でしたが、34歳の時、神経症となります。森田療法によって救われ、新境地の著作がこれです。
小田垣雅也著 「現代のキリスト教講談社学術文庫 第6章ネオ・ロマンチシズムの神学に向けて

日時 6月9日 午後2時より
場所 那智勝浦町市野々 NPO熊野みんなの家
連絡先 熊野健康接骨院 0735−52−1969 090−6987−6679
講師 公益社団法人日本心理学会認定 認定心理士 阪口圭一

西洋的近代的自我
デカルト 合理主義 要素論主義 二元論 実体論 善と悪 啓蒙主義
絶対的、本来的な善と悪(正邪)の二元があると前提する そして善を求め、悪を排除するように求める そこに理想と現実の乖離葛藤が生まれる 今ここの自己を手段としてしまう自己疎外が生まれる

東洋思想
色即是空 一切皆空 全体論 全体は部分の集合以上 善悪は仮定されたもの
善を求め悪を排除するよりも 断定すること自体を保留する 二重性 公理系
前提が変われば判断も変わる 葛藤を極めつくしたところでの「信」 決定往生 慈悲




「耳垢」のはなしから  
 
 三週間ごとに、口腔ケアの為歯科医院に通っています。先日待合室に生理学の簡易本があって、「耳垢」についての記事がありました。私は、幼い頃水泳後に中耳炎にかかって以来、他の人より耳垢を気にするようになったと、思っています。ですから、「耳かき」にもこだわりを持っています。さすがに、一本8000円の名人手作りの耳かきは持っていませんが、市販の竹製の耳かきを自分用に削りなおし磨いて使います。
 
 その記事を読むまで、「耳垢」は何せ垢(dirt)・汚れ(grime)なのですから、常に取り除いておくべきものと思っていました。ところが記事によると、耳垢は、主に腺から分泌されるたんぱく質酵素、や脂肪で、弱酸性であり、耳の内部を乾燥、雑菌や虫などから保護してくれているというのです。
 
この記事を読み、私は腑に落ちることがありました。新婚当時私は、つれあいに膝枕してもらい、耳垢をとってもらいました。とればとるほど、びっくりするほど耳垢は直ぐに溜ったものです。つれあいから、「あなたは考え事が多いから、耳垢も溜るのよ」と言われました。 
 今にして思えば、取り去れば取るほど、保護の為に体脂は分泌されていたのでしょう。逆に、忙しくて耳かきを忘れていた時は、溜らなかったように思います。

 私がこの記事が腑に落ちたように納得したのは、最近特に森田療法に焦点を当てていることと関係していると思います。耳垢だけでなく、心身の垢も、無理やり掻き出そうとすれば、かえって次から次へと生まれてくるのではないかと思ったりします。
 
 私が青年期の頃、フロイト精神分析も流行っていて、その流れをくむセミナーも数多く開かれていました。心の奥深くに隠れている葛藤や影を、衆目の前で明らかにしようとするレッスンセミナーでした。初めは内面の影を語ったり、表現したりするのをためらっていた人が、セミナーを通して表現するようになったことには驚いたのですが、セミナーといった非日常空間だけでなく、日常空間においても、場の雰囲気を読み取ることなく、ところかまわず発露する姿を見て、私はそういったセミナーに限界を感じてしまいました。
 
 世界を善と悪、正と邪に分けて、善の力、正の力で悪を抑える、邪を排除するという方法、その裏返しとして、抑圧していたものを解放させるという方法は、正当な誤りのない方法のように思えるのですが、実際生活上の上では、無理があるように思います。
 
 先ほどの耳垢のように、「垢」として取り除こうとすればするほど、次から次に生まれてきます。そして、そもそも「垢」という言葉に惑わされて、取り除かなくてはいけないモノと決めつけていました。最初の前提そのものが間違っていたのです。
 
 森田療法では、「不安」とか「恐れ」は、しっかり生きようとすれば、必ずそれに付随して顕われるものと捉えます。コトバの習慣的な使い方に惑わされることなく、「あるがまま」ということを見直してみようと思っています。(因みに英語で耳垢は、earwaxといいeardirtとはいいません。)