40年ぶりに倉田百三を読む

k1s2013-03-13

高校生の頃、倉田百三の「愛と認識の出発」を愛読書にしていました。同級生が「三太郎の日記」を持ち歩いていたので、それに対抗してのええかっこしいの思いもありました。といっても、両書は40年前でも一時代前のあまり注目されない書籍でした。そして、卒業以来、読まずにいました。
 
先日「親鸞」をテーマにした読書会に参加しました。
親鸞さんに興味があったわけではありません。たまたまテーマが親鸞さんだったのです。むしろ親鸞や「念仏」については、避けてきました。長い間私にとっての仏教は、「縁生」「四法印」こそが教義であり、自力主体の、瞑想実践の伴う原始仏教であり、チベット仏教でしたから。
 
しかし、放射能金利PM2.5と「死の意識」と「欲望」が飛び交う現実の暮らしの中で、その「自力」に行き詰ってしまいました。
つまりつつ、最近の愛読書は、小田垣雅也氏著の「現代のキリスト教」など神学の本や、丸山圭三郎氏のソシュールに関する言語学の著作などです。
それと、心理療法については、以前から名前だけは知っていた森田療法のことが気になり始めていました。
 
「愛と認識の出発」の著者、倉田百三氏は、極度の神経症にかかり、森田正馬の治療を受けています。私はそのことを、小田垣氏の本の中で知りました。その倉田百三氏の別のベストセラーが「出家とその弟子」であり、親鸞が主人公です。
 
 時代順から言えば、親鸞森田正馬氏、倉田百三氏、丸山圭三郎氏、小田垣雅也氏と、私の中では、小田垣氏の言葉を使うと、二重性、ネオロマンチシズムという糸でつながっています。
 
「自力」と「他力」の二重性をおもいつつ、数十年振りに、倉田百三の文章に触れています。
今回は「法然親鸞の信仰 上下巻」講談社学術文庫 を読んでいます。
 
下巻は、「歎異鈔は、私の知っている限り、世界のあらゆる文書の中で、一番内面的な、求心的な、そして本質的なものである」という文章から始まります。