朝、慧能さんがやってきた

k1s2013-03-15

あと数日で、大学(通信教育部)を卒業します。
その大学は、仏教系の大学で、教養課程では「仏教」の科目が必修でした。
今から40年前、私は、大学を中退ではなく初退したので、一回生からの入学でした。
 
「仏教」の授業で、仏教の基本的な教えとは、という問いかけに対して、「七仏通誡偈」が紹介されていました。
 
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
もろもろの悪を作すこと莫く もろもろの善を行い 
自ら其の意を浄くす 是がもろもろの仏の教えなり
 
修業をして「諸々の悪を為すな」と命令形に解釈する人々と、止観瞑想実践の結果「諸々の悪を為さないようになる」と結果を表すと解釈する人々がありますが、自力で以て修業し、ある境地にいたろうとすることでは共通しているように思います。
 
私も、これを仏教の基本としてきました。
 
しかし、善悪二元論や自力に行き詰ったことをこれまで書いてきました。
 
最近、倉田百三の本を通して親鸞さんのこと、小田垣雅也さんの本を通して、神学やネオロマンチシズムのことを想い続けています。
 
そんな中で、今日は慧能さんが現れました。

慧能という人の名前は、これまで幾度か聞いてきたのですが、例によって齢80歳になろうとするお友達が、アマゾンで一休禅師に関する本を探してくれというので、探すうちに、マンガ一休伝を知り、その中にも慧能のことが出てきます。
 
慧能に関して、ウィキペディアにはこうあります。
<父が早くに亡くなり、薪を売って母親を養っていた。ある日、町で『金剛般若波羅蜜経』の読誦を聞いて出家を思い立ち、東山の五祖弘忍の下に参じたが、文字が読めないため、寺の米つきに従事した。>

またマンガ一休伝には
<六祖慧能はこう言われたのじゃ 
即ち 身や心を清浄とか塵埃とか二つに分けて考えることは間違うておる 穢れの中に浄があり 浄の中に穢があり そして悟りの中に迷いがあり 迷いの中に悟りがあると言うのじゃ 神秀(兄弟子)のように先に悟りの世界を立て修業してそれに立ち至ろうとするのは誤りだ(水上勉原案 佐々木守脚色 小島剛夕画 マンガ一休伝 平凡社 276頁)より>

 
本來無一物 何處惹塵埃  仏性常に清浄、何処にか塵埃有らん
知識としてではなく、これを日常そのものに当てはめて味わっていきたいと思っています。