二項対立(あるいは要素対立)とその克服

 この世のすべてのものごとは、独立する二項(あるいは要素)で成り立っているという見方があります。
   
 快と不快、生と死あるいはエロスとタナトス、善と悪あるいは良い乳房と悪い乳房、錯覚と脱錯覚、自己と他者、主観と客観、理想(願望)と現実(不満)、弁別と般化、帰納と演繹、ブレーキとアクセル、集中と拡散、本音と建て前、理性と感性、ケチと浪費、博愛と一途な愛、個別性と平等性、個性と普遍性
   
挙げていったらきりがありません。何しろ、そのようにみようとすれば、世界の全てがそのように見えるのですから。
   
二項の対立(要素対立)のものの見方は、時に発展をもたらし、時に苦しみをもたらします。
   
生きていたいのに、必ず老いて死ぬ
友人として付き合うのなら、太郎君が良いけど、結婚相手とするなら悟君が良い
甘くておいしいものを好きなように食べたいけど、糖尿病が心配だ
本音で生きたいけど、世間が許さない。
   
二項対立の捉え方は一つではありません。
二項は独立しており永遠に対立するという見方もあれば、二項は連続しており、その違いは程度の差であるという見方もあり、相補的な存在とみることもあり、依存的な関係とみることもあります。
    
これまでの人間の営み、文化、哲学、宗教、科学、心理学などは、すべて二項の対立の克服を試みてきたといってもいいでしょう。
    
二項の対立の克服の試み方は一つではありません。
   
よくあるのが中庸や折衷です。
中庸や折衷では課題が解決できなくて(中途半端)生まれたのが弁証法、第三の立場の創設ともいえましょう。
それらとは違った道が、二重性。全体性。色即是空空即是色。複雑系
  
心理学の営みもまた、二項対立克服の一つの試みと捉えることができます。
    
 心理学を語るにおいては、フロイト精神分析を避けては通れないのでしょうが、私は避けて通ってきました。
    
 今から約40年前高校生の頃、心理学との初めての出会いはやはりフロイトでした。
簡易本や「夢判断」を読んだのですが、エディプスコンプレックスとかリピドーとかの用語に馴染めなくて、以来○○のひとつおぼえという言葉があるように精神分析とは、無意識の抑圧について語ったものと思い込んでいました。
    
 ところが、通信制大学の科目で「心理療法」を避けることはできず、高校生の時以来読み直してみて、アンナ・フロイトの自我心理学やら、メラニー・クラインやフェアバーンウィニコットなどの対象関係論、コフート自己心理学を知るに至り、長年精神分析に対して思い込みを抱いていたことを自覚しました。
    
クラインのいう早期対象関係理論でいう「部分対象関係part object relation」とか「全体的対象関係whole object relation」など、拡大解釈的に使用して、二項対立の克服の説明に使えそうです。
   
テキスト臨床心理学1カウンセリングと精神療法 培風館によれば
  
<a.部分対象関係  早期の対象関係は部分対象関係です。つまり、それは幻想の中では乳房、母親の顔、手など、身体の解剖学的部分として体験されています。それらは、全体的な母親の身体の一部であるとは認識されてはいません。>
<b.全体的対象関係 生後半年頃になると、赤ん坊は、母親の全体像を認識できるようになります。つまり「よい対象」も「悪い対象」も両方併せもつ全体対象としての母親が認識されるようになります。>(73頁)
<全体的対象関係 生後半年頃になると、乳児は、母親の身体や母親の存在を全体的な統合されたものとして体験できるようになります。またそれに対応して、愛する自己の部分と破壊的な自己の部分が統合されて、全体的な自己が形成されるようになります。>(77頁)
     
一本の樹を目の前にして、樹を葉っぱ、枝、幹、根っこの要素に弁別することができます。この場合、葉っぱ、枝、幹、根っこなどが部分対象で、一本の樹が全体的対象です。
 
ところで、一本の樹が樹として存在し得るには、樹だけでは無理です。根が伸びている大地や大地を覆っている枯葉や水や光があってのことです。視点を変えると、一本の樹もやはり部分対象です。
  
母親も父親も兄弟姉妹も、それぞれは一人の独立した全体的対象でありながら、家族という関係の中では、部分対象です。家族もまた親族血族の中、地域社会の中では、部分対象です。
   
また全体的対象という言葉を英語で表すと、whole object となっているように、どんなに全体的wholeであろうと、対象objectであるかぎり、私と対象(itそれ)という二項であることに変わりません。
       
 才能ある芸術家が、60歳を前にして癌で亡くなりました。その友人が記者のインタビューに答えて「神や仏はないのか」と言っていました。活躍中の友人が亡くなったことへの口惜しさを表現するために世間的表現として「神や仏」という表現だったかもしれませんが、その人の神仏観が、要素論あるいは実は無神論であると垣間見たように思いました。
      
 神といえば、神に関して、唯一神という言葉の意味の解釈について思い込みがあったことを最近思い至りました。
 「唯一」という言葉には、排他的でマイナスなイメージを持っていたのですが、よく考えると「他がない」とは、つまりは「全体」を表すのではないかと。
そのことについてはまた別の機会に。