過程であると同時に、永遠であること

幼い頃、父は定職に就いていたものの、私の家は貧しくて、よく父と母は喧嘩をしていた。 友達を家に連れてきたら、つかみ合い、ののしり合いの喧嘩の最中ということもあった。 自分が大事にしていた置物とかおもちゃは、その度に壊れてしまった。

そんな姿を見て、どうして世の中には、貧富の差があるのだろう? どうして人間は、土を食べるだけで生きていけるように作られなかったのだろうか? 土を直接食べられたら、お金を稼がなくてもいいのに、と思った。

 「だって、そうなっているのだから、それを受け入れるしかないでしょう。」という事柄は、色々ある。
 
 このからだが先ず、そうだろう。 何かを食べていかないと生きていけない。
 そのからだは、寒いのを嫌がるし、暑いことも嫌がる。それだけでなく、欲求の充足、快楽を求める。 このからだは、やがて老いていき、いつか機能を停止し、腐り、分解していく。
 「だって、そうなっているのだから、それを受け入れるしかないでしょう。」
 
 これまで何度も引用してきたが、ニーバーの祈りに述べられるように
 
 変えるべきことは変える勇気、変えられないことを受け入れる心の静けさ、変えられることと変えられないことを見分ける智慧を身につけたいものだと思う。
 
 世の中の常識とかしくみとかは、変えるべきことなのか、変えられることなのか、難しい。
 
 アドラー心理学では、「個人の内部には、実は対立はなく、個人と世界との間には対立がある。」という見方を、「相対的全体論」といい、「個人と世界との間には、実は対立はない。」という見方を、「絶対的全体論」というようだ。
 
 創始者のアルフレッド・アドラーは、一般的には、相対的全体論を述べ、ある時は絶対的全体論としての「共同体感覚」を述べたそうだ。
 
 言葉としての絶対的全体論とか、共同体感覚は聞いて知っていたものの、個人と世界との間にも実は対立はないという見方は、わからないでいた。
 
 でも、最近こういうことかなあと思うことがある。
 
 今ここは何事かの過程であり(相対的全体論)かつ、永遠(絶対的全体論)という、ものの見方。 十字架にかけられたままのパラダイス。
 
「そして人は、自我に死ねば、それだけ多く神に生き始めるのだ。」イミタチオ・クリスチ