ALOHA 生きることと全体論

全体論とは、哲学的、医学的あるいは心理学的用語で、簡単に表現すれば「全体は、部分の総和以上のものである」というとらえ方のことです。例えば、ホリスティック医学というときの、ホリスティックが全体論的ということの英訳です。

人間を研究するとき、まず部分に分けて研究する。部分について研究されたものを再び集める、しかし、人間全体は、どんなに事細かに研究したとしても、部分の総和以上のものである、とホリスティック、全体論的医学では考えます。

全体論に対する対立概念が、要素論です。あれもこれも、いいとこ取りして集めればいいじゃないというのは要素論です。どんなにたくさんのことがらを集めても、それは要素論です。それは、集合論であって、全体論とは言えません。

とはいうものの、全体は部分の総和以上であるといっても、話がいわゆる哲学的で、私達の日常と全体論が、どのように繋がっているのか、よくわからないかもしれません。それで、生きるということと全体論というテーマを、私なりに、詩情的に語りたいと思います。

生きるということはどういうことか?
それは、まず、息をすることだと思います。(ALOHA)
次に、衣食住が足りていることが、人間が人間として生きていることの条件だと思います。衣食住だけという意味だけでなく、他にも大切なことはあります。ともかく、衣食住が必要ということです。
 
衣食住の「住」なんですが、それは、「家」ということですね。
そして、この家は、単に建物(house)という意味だけでなく、「家族・家庭」や「HOME」を意味していると思います。

 私が、この世に生まれるには、両親があってのことです。その両親にも、それぞれ両親がいる。そのまた両親に、それぞれ両親がいる。そうやって、生命の起源にまで行き着きます。
 一個人だけを観察すれば、一個人だけで存在しているように見えますが、決して、一人だけでは存在し得ません。
 ですので、生きるとは、生命の起源にまでさかのぼれる血肉のつながりがあってのことということです。
 
 一個人が、水平的、垂直的に一個人だけで存在しえないように、一つの家族・家庭も、一つだけで存在し得ません。家族にとっても、やはり、「HOME」があります。
それは、血族や一族です。今の日本では、ずいぶん希薄になった面がありますが、一族の原点は、親子という関係だけでなく、兄弟姉妹、祖母祖父と孫、ひ孫という関係のことです。
 
血族や一族も、それのみでは生きていけません。血族一族を養ってくれる地域社会、郷土というものがあって、生きていけます。「HOME」には、「郷土」といういみもあります。
 
 私達の日常と全体論との関わりを考えたとき、私は、「HOME」とのつながり、連帯感、所属感を感じて生きている生き方を、全体論的な生き方だと思っています。
 
ここに「私の隅田川江戸前釣師七十年 という本があります。著者は、鈴木鱸生といわれる方で、水族館の建築に携わりながら、釣りの研究をされ、俳人でもあった方です。
明治31年に、隅田川のほとりに生れ、隅田川に慣れ親しんで育った方です。

私の隅田川、の「の」は、所有の「の」ではないことは明らかです。
この本の題字を見たとき、私たち一人一人にも、私の○○川、○○山、○○湾と言えるような連帯感や所属感を感じる山や川や海があるだろうか、という感想を持ちました。どうでしょう?
 
 川でいえば、私には、長野川・尾後川という川と、堀切川という川が思い浮かびます。
 長野川河口付近ではよく泳ぎました。少しさかのぼったところでは、幼い頃父に連れられ、父はボラ釣、私はハゼ釣りをしました。鉄橋があって、その上手は、祖父がウナギの穴釣りやテナガエビをとったところです。さらに遡ると小山があって、いろんなヘビを見かけるところで、実際ヘビに追いかけられたことがあります。さらに遡れば、堰があって、そこが地域住民の水源になっているところです。堰の下流では、洗濯物のすすぎをしました。母に手をひかれていくと、天気の良い日は何組かの親子が来ていました。
 
その上手で、尾後川という支流に分かれます。尾後川をさかのぼれば、オガ淵が見えてきます。小さな滝になっていて、淵に向かって、子供達は飛び込みをしました。フナを突いたり、はやを釣ったりしました。尾後川の両側は、田んぼになっていて、私の家には田圃はなかったのですが、母親が手伝いに出かけ、母についていって、よく遊びました。春には、一家で、上流までワラビ摘みにいきました。
上流の山には、防空壕の跡があって、洞窟探検をし、蝙蝠をとりに行ったり、水晶の発掘に行ったりしました。
 幾つになっても、この川の情景は、自然に目に浮かんできます。
 
しかし、私の子供となると、私と同じような関わりを持てていません。私は私の長野川、尾後川、堀切川といえるのですが、子供達はどうだかわかりません。ウナギやドジョウ、ナマズ、ザリガニをとった堀切川は、市街化によって、川でなくなって下水路になってしまいました。
 
時代が如何に変わろうと、子供は親から生まれてきます。食べ物は、大地の恵みです。山があり、川があり、海があって、私達の衣食住は足りるのです。私達の日常は、いつも全体論的なかかわりの中で成り立っているのです。しかし、私達はしばしばそのことを忘れがちです。私自身忘れがちです。
 
 最初に戻りましょう。生きるということは、息をすることです。
 この空気は、人間が作り出したものではありません。地球が宇宙に生れた最初から、この地球に大気があったわけでもありません。太陽と地球の距離、地球の大きさ、そういった微妙なバランスの上で、大気は地球の周りにあります。植物をはじめとする様々な生命体の長い歴史の中で、今の地球環境ができました。

 一呼吸ごとに、それを感じること、一呼吸ごとにHOMEとつながること、それが全体論的な生き方で、ALOHAだとおもっています。
 実は、私達は、全体とのつながりのなかに生きているんだよ、ということを思い起こすために、自身ALOHAの呼吸をし、またその呼吸法を伝えています。