どうも、「絵を描く動物」は人間だけのようです。確かに、時々絵を描くチンパンジーや象が放映されることもありますが、あれはチンパンジーや象が絵筆で描きなぐったものを、人間が絵とよんでいること。他のチンパンジーや象が、それを見て鑑賞するわけではないでしょう。(本人に聞いて確かめたわけではありませんが、描いたチンパンジーや象本人もまた、自分の絵を見て鑑賞しているとは思えません。)
私は、絵を描くのが大の苦手でした。しかし、50歳になったころ、ある人とある本に出会ってから、絵を描くのを楽しめるようになりました。ある本とは「脳の右側で描け」と「酒井式描画法」。
今振り返って考えると、楽しめるようになったのは、心理学を学びつつ「止観瞑想」を続けていたことも、大きく影響していると思います。絵を描くということ自体が、「瞑想」であるとも思います。
絵を描くことや瞑想を通じて知った言葉が、「弁別と般化」です。弁別と般化という言葉は、私にとっては、今は毎日の思考の中で使われる言葉です。しかし、絵を描く講座や心理学講座で参加者の方々に尋ねてみると、多くの人々にとってはなじみのないコトバのようです。
私は、弁別という言葉を「より細かくちがい(差異)がわかること」「違いを見出すこと」般化を、「違いを捨てること」「共通性を見い出し、それで括ること」「違いの判断の基準を緩めること」という意味で使っています。
一般的な辞書には
<弁別とは、学習実験に用いられる用語で、類似した刺激の中から、ある特定の刺激だけに反応するようになることで、分化とも言われる。等質な全体が個々の特性を持った部分に細分化されること。>と書かれています。
類似した数多くの刺激の中から、ある特定の刺激だけに反応するには、ある特定の刺激を他の類似した刺激から弁別しなくてはなりません。と同時に、類似した数多くの刺激の中から、これらはある特定の刺激に属する刺激であると般化しなくてはなりません。ですから、弁別は般化が前提となっており、般化は弁別が前提となっています。
弁別と般化は、学習心理学の中でよく使われる言葉と思いますが、私達が生きる、よりよく生きる、充実して生きる、愛しあって生きる上で、この弁別と般化という言葉の意味を知り、弁別と般化を上手に調整することが大切と思っています。
というのは、あるものごとを学習したり、上達したり、あるいは神経症になったり、鬱になったりすることと治ることと、弁別と般化は深く関わっていると思うからです。
例えば絵を描くにおいては、先ず「弁別」できることが大切です。対象をよく観察して、ちがい(差異)を見出すこと そのちがいを画用紙に絵筆で表現する時、絵筆を動かす自分の筋肉の動きのちがい(差異)を見極めること、が必要です。
より細かな弁別ができると、絵が描けるようになるのか、楽しめるようになるのかというと、そうでもありません。弁別することが止められない人々や止められない状況があり、それで困っている人もいるからです。
「弁別が止められない状況」とはどういう状況なのか、よくわかるのが倉田百三の経験です。
倉田百三は、庭のある松を目の前にして
<松の細部を知覚できても、松ノ木の全体を「みた」と感ずることがまるでできなくなるという、実に不可思議な感覚にとらわれてしまった。眼に映るものは部分のみであって、いかに全体をイメージしようとしても、心にその像がどうしても結ばない。>
<目に入る事象のことごとくが部分だけになっていった。机の上のインク壺のような小さなものでさえ、蓋やラベルや、そういった部分のみに意識が集中して、ついにインク壺の何たるかがまるで知覚できない。>
<八百屋の前を通りかかる。知覚できるのは野菜や果物だけである。店全体がどんなものかがわからない。そこで店全体を把握しようと努めるものの、店に並べてある商品を個別に飽くなく見回すだけの徒労に終わってしまう。>
<全体を知覚しようと努めれば努めるほど、逆に部分のみが鮮明となって迫り、全体はいよいよ漠となって自分から遠のいてしまう>
(以上、渡辺利夫著 「神経症の時代 わが内なる森田正馬」TBSブリタニカ より引用)
自閉症傾向の新生児・新生児が母親を認識できないのも、顔全体が認識できなくて、例えば、目、目尻、目尻の皺、皺のでこぼことより細かな弁別をしてしまうからだと聞いたことがあります。
また、LD・ディスレクシア・読字障害のある人々は、より細かい弁別をしてしまい、例えば明朝体の「か」と、行書体の「か」だと別の字に認識してしまうようです。ましてや、人の書いた文字はそれぞれ違う「か」に見えることでしょう。
また、頭の中であるひとつの考えがグルグル回り続け、考えるのをやめたらいいのだと考えるのですが、その止め方をあれこれ考えたり、止めた後のことを考えたりしてしまい、結局より考えてしまうということがあります。
また、賢すぎるロボットは役に立たないというコラムを以前読んだことがあります。より細かく弁別できるロボットをつくろうとすれば、現代の技術では、計算処理に時間がかかり、又処理装置を装備するために体も大きくなりすぎるというのです。(ずいぶん昔の記事ですから、今は改善されていることでしょう。)
より細かく弁別するということが悪いのではなく、状況に応じて、弁別したり般化したりの調節ができないことが問題です。
調節する方法、調節を学ぶ方法として、手仕事があると思います。
自閉症傾向の子どもに見られる、自己刺激行動(リズムある反復運動)、ロッキング、フラッピングなどは、より細かく弁別してしまうことを調整する働きがあるのではと思っています。また森田療法の入院療法での第二期は、作業療法期といい、軽作業から始めます。
昔から、編み物は、魂鎮めと言われたそうです。
長々と文章を書いてきました。このコトバだけの作業も、弁別と般化の結果なのですが、コトバだけだと一歩間違えば、疲れを呼びます。それで、おしまいにします。
ともかくまずは、自分の息を観つめてみましょう。