ことものこと

k1s2013-05-23

原始仏典によれば、釈尊は「縁起の法」を悟ったと言われています。そして、縁起の法の内容は、
「これがあれば、これがある。これが生ずれば、これが生ずる。これがなければ、これがない。これが滅すれば、これが滅する」と表現されたりします。
  
ところが、現代の仏教の解説書の多くには「これがあれば、かれがある。」と表現され、縁起の法を、因果の法と理解・表現しているものが多いです。
  
 釈尊菩提樹の木の下で悟ったことの内容は、どのようなことであったか、私は釈尊ではないのでわかりません。語れません。しかし、これが釈尊が悟ったことの内容であると人々が伝えてきた文章、物語(特に竜樹のもの)に触れて、私自身が実生活の中で実感したこと、苦の滅に繋がったことについてなら、私にも語ることができます。
  
 私にとって「これあるによりてこれあり」も「これあるによりてかれあり」も、同じ体験(相依性の実感、有機全体論、不在の在)について語っています。体験ではなく、語釈や思考から理解しようとすれば、それは違ったことになるように思います。
  
 仏典には、「これありてこれあり」「これありてかれあり、かれありてこれあり」を釈尊の弟子、シャーリプトラが譬えで以てわかりやすく説明した文章があります。
  
< 友よ、しからば譬えを説こう。識者はここに譬えをもって説くところの義を知るが良い。友よ、たとえば二つの蘆束は、たがいに相依りて立つであろう。>
  
このページに掲載した写真を見てください。これらの小石が立っていられるのは、この石とかの石がお互いに寄りかかっているからです(相依性)。
  
 でもこれだけでは、釈尊や竜樹が語った相依性についてまだ不十分なように、私は私の日常の体験から思います。部派仏教のように、要素論的理解に陥る恐れもあります。
  
 ともすれば、この小石たちを見ていると、先ず確固たる境界を持って独立して存在する小石が、お互いにもたれあっていることのみを以て相依性と言ってしまいがちです。
  
 もう少し、竜樹の言葉に耳を傾けてみましょう。
 
< 浄に依存しないでは不浄は存在しない。不浄に依存しないでは浄は存在しない。(中論 23)
「一」がなければ「多」はなく、「多」がなければ「一」はない。したがって、ものは縁って起こる(縁起)のであって、自立しているのではない。(空七十論 7)
(ものが)存在し、かつ無であるということは同時に成立しない。(しかし)無ということがなければ有ということもない。つねに、有と無の両方がある。(そして)有なくして無もない。(空七十論 19)
 
定義されるものから定義するものが成立し、定義するものから定義されるものが成立するのであって、それ自体成立しているのではない。またどちらかの一方から他方が成立するのでもない。(また)成立していない存在が、成立してい ないものを成立させることはない。 (空七十論 27)>
  
もう少し、私たちの日常生活にかかわりのある言葉で表現してみましょう。
  
<「健常」という概念に依存しないでは、「障害」という概念は存在しない。>
  
もう一度、小石たちの写真を見てください。「(A)これあるによりてこれあり」あるいは「(B)これあるによりてかれあり」。「これ」といったとき、あなたはなにをもって「これ」といっていますか。
同じ「これ」ということばでも、おそらくAとBでは指しているものが違うことでしょう。
  
「これあるによりてこれあり」の時の「これ」は、「小石たち」であります。さらに、小石が置かれている「机・大地」も含まれます。なぜなら、重力なしにはお互いもたれあうことはないでしょう。さらに、それを見ている私、語っている私、読んでいるあなた、媒介となっているインターネットを含めての「これ」です。
  
 そして、「これ」の境界を「ここ」と決めて切り分けているのは「あなた」です。
  
「正常と異常」の境界、「健常と障害」の境界、「正義と不正義」の境界、「私とあなた」の境界、「私と自然」の境界、「神と被造物」の境界、「生と死」の境界、「モノとコト」の境界・・・・・・
 
<行がなければ無明も生じないし、それ(無明)がなければ行も生じない。(空七十論 11)>
  
さて、具体的にどう生きましょうか?
  
「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。」(マルコ12章30−31節)
  
「地獄は一定すみかぞかし」「帰命無量寿如来 南無不可思議光」 (正信念仏偈 親鸞
  
「念仏申さるるように」法然