いっしょくた 一緒くた 一即多

k1s2013-05-25

「いっしょくた」という言葉はこれまで、ひらがなで「いっしょくた」と書くものと思っていました。
国語辞典を引いてみると「一緒くた」という項目があり、何もかも一緒にしてしまう事、「くた」は「塵あくた」の「くた」に通じるなどと説明があります。
 
 ところが今日、「一即多 多即一」という言葉を調べていたら、「いっしょくた」という読みが出てきました。「いちそくた」が訛って「いっしょくた」になったという方が、私には馴染みます。
 
 というのは、「一即多 多即一」の本来の意味が理解されずに、それこそ一緒くたになってしまっているような印象を受けるからです。
 
 例えば、一神教多神教は、インドのブラフマンなら「一即多」があり得るでしょうが、ふつう西洋世界なら対立するものとして捉えると思います。 そして、一神教は排他的であると捉えます。
 
 その時の「一」は、「一、二、三」の一です。でも、「一即多」の時の「一」は、「全体」を意味する「一」です。順番や個数を表す「一」と全体を表す「一」がそれこそ、「一緒くた」になってしまっています。
 
 一緒くたついでに、私の中の「いっしょくた」を語ることにしましょう。
 
 釈尊は、縁起の法を悟ったと言われています。すなわち「これあるによりてこれあり」。
「これ」とは私にとっては、「全体を表す一」としての「これ」です。
つまりは、システム論であり、有機全体論です。
全体は全体として自ずからある(自然)。
 
モーゼの前に現れた神はこういいました。
「私はある。私はあるという者だ」(出エジプト記
つまり「これあるによりてこれある」のが神 
 
かくして、私の中では縁起の法(仏教)と唯一全体神は、一緒ではありませんが、矛盾しておりません。
 
私たちが「悟り」を開くのではなく、「悟り」が私たちを開いてくれることでしょう。
 
凡夫のこころには決定なし。決定は名号なり。(一遍上人語録二五)
名号が名号を聞くなり。(同 七〇)
自力他力のうせたるを、不可思議の名号とはいうなり。
決定というは名号なり。わが身わがこころは不定なり。身は無常遷流の形なれば、念々に生滅す。心は妄心なれば虚妄なり。たのむべからず。(同 二六)