念起即覚 南無阿弥陀仏

「念起即覚」とは、「無門関」の最後にある「禅箴」に出る用語です。
 
 色んな解釈があるようですが、字のごとく、「色々な念が生起したその時その時に覚醒する」という暮らし方を表していると思います。
 
 一遍上人は、法燈国師に参禅したとき、この「念起即覚」を歌にしてごらん、といわれます。

 < 宝満寺にて、由良の法燈国師に参禅し給ひけるに、国師、念起即覚の話を挙せられければ、上人かく読みて呈したまひける
 
 となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして
 
  国師、此歌を聞きて「未徹在」とのたまひければ、上人またかくよみて呈し給ひけるに、国師、手巾・薬籠を附属して、印可の信を表したまふとなん
 
 となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

 (一遍上人語録 大橋俊雄校注 岩波文庫より)>
 
 伝統的な瞑想手順にのっとって瞑想をしますと、「保留」という状態が生まれます。意馬心猿といって私達の心と意識には、色と受の接触により、様々な想念が生起し、普段はその想念に従って、行動してしまうところを、瞑想トレーニングをすると想念から離れて、想念を観ている状態がうまれます。
 
 つまり無意識的なメンタルモデルに従って反応してしまうところを、意識的に観る状態になります。
 
 瞑想者というのは、瞑想トレーニング中だけ瞑想するのではなく、朝起きてから眠るまで瞑想しているもののことを言います。
 
 悟りの境地に達して、それ以後ずっと悟っている訳ではないし、難行苦行して百万遍唱えたら到達するものでもないと思っています。
 
 だから、「念起即覚」というのだと思います。
 
 でも、人間は「保留」するだけでは、混沌とした世間を生きていけません。
 
 一即多 多即一 という「創発」の中に入っていくことが大切です。

 ところで、世間を生きることに関して「久米の仙人」というおはなしがあります。

 仙人が神通力で空を飛んでいるときに、雲の間から眼下の川で洗濯する女性のふくらはぎに見とれてしまい、落下してしまったというお話です。
 
 これは、今昔物語集の中の久米寺の由来のお話のはじまりであって、洗濯していた女性は、落ちてきた仙人を笑い、仙人と夫婦になります。 二人は幸せに暮らしていたのですが、住んでいる村に問題が起こります・・・・・・・
 
 行間を読むと面白い話です。
 
 世間は欲望と苦に塗れていますが、念起即覚 南無阿弥陀仏なみあみだぶつ