生きるということ 死ぬということ そして瞑想

< 生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり >
 
「生きるということ」の中には、「死ぬということ」が内在しています。
  
大人であれば、自分がいつか必ず、老いて死んでしまうことを知っています。
  
子どもであっても、ご飯が食べられないと、元気をなくし、生きる力を失ってしまうことを、体験すればわかるでしょう。
  
生きる活力がなくなると、病気になったり、そして死んでしまうことも、子どもも予想することができるでしょう。
  
そこで私達は、ともかく「食べることができるため」の努力をします。
  
また、生きるということは、「食べること」だけで成り立っている訳ではありません。
 
「衣食住」ということばがあるように、生きていくためには、様々なものが必要です。それらは、なるべく自給自足に近い生活をするにしても、一人ではすべてを作り出すことはできません。現代社会では、生きていくための品々を、お金と交換して手に入れます。ですので、生きるにはお金を得なければなりません。お金を得るためには、そのための努力をしなくてはなりません。大人になれば仕事を、大人になる前には、教育が必要です。そういった人間関係を創造し、維持していくにも、またお金が必要です。
  
 どのような生き方をするにしても、その根本には、充実して生きていたい、元気に生きていたい、病気になりたくない、死にたくはない、という思いが根本にあることでしょう。
  
 生きていくのに精いっぱいで、じっくり考える余裕のない人々もいますが、それでも、私達は、どんなに努力しても、いつか必ず自分が老いて、死ぬということを知っています。
  
道元禅師は「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」といいました。
  
それぞれに生を明らめ、死を明らめた結果、為す努力の多くは、やはり、病気になることを避ける努力、死ぬことを避ける努力、安全、快適に生きていける環境を作り出していく努力ではないでしょうか?
  
どんなに努力しても、やはり、人間はいつか必ず死にます。
そこで、更にじっくり、生死を明らむることが大切になってきます。
    
< 死ぬことへの向き合い方色々 >
  
 なるべく老いないようにする、死なないようにする努力をする一方、自分がやがて必ず老いる、死ぬと感じたところで為す、生死の明らめ方は、人それぞれです。
   
 一つは、明らめるという言葉と矛盾するようですが、忘れるという方法をとる人々がいます。
 忘れ方にもいろいろあります。忙しい環境とか、考え事ができない環境の中に自分を追い込んで、死を忘れるという、逃げるような、刹那主義的な忘れ方をとる人々がいます。
   
 逃げない忘れ方、という方法もあります。いつか死ぬという考えを一旦保留しておいて、今ここに起こっていることに集中するという方法です。「一期一会」とか「今ここに生きる」「なむあみだぶつ」という標榜を掲げたりします。
   
 一つは、死ぬということの「意味付けを変える」という方法をとる人々がいます。
    
唯物的にとらえる人は、もともと、肉体というのは、物質の集まりなんだから、元の物質に変えるだけのこと、苦しみや不安もまた肉体とともに滅ぶ、と捉えます。
    
それとは逆に、肉体とは別に魂とかアートマン等が存在し、肉体は滅んでも、魂やアートマン、あるいは遺伝子は不滅で、輪廻転生したり、天国、極楽へ行く、次世代に受け継がれるという捉え方をする人々がいます。
これらの道には、どうすれば極楽や天国へ行けるという確信を持てるのか、たった今現在の苦しみが解決されるのかという課題が残されます。
   
生を明らめ、死を明らめむる方法は人それぞれであり、どれが正しいとは言えないでしょう。
   
 二宮尊徳は、死を恐れる人に次のように諭しました。
「おなか一杯十分に美味しくご飯を食べた後に、もう一杯ご飯を食べたいと思いますか? 人生を十分おいしく味わえば、更にもう一杯とは言わないでしょう。」
   
一遍上人は、「となふれば仏も我もなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」といいました。
 
 仏教の基本的教えは
「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」です。
  
また聖書では「お互いに愛し合いなさい」と述べられています。
   
瞑想実践、自浄其意によって、正しい生死の明らめ方が見えるのでしょうか?
     
正しいとか正しくないではなく、自分が意味づけをしているということが、明らかになると思います。
      
死に至る最期の道が、断末魔の道なのか、光り輝く花園や恩寵の道なのか、それもまた今この時の自分自身が作り出していることが明らかになるのだと思います。