会社人間と共同体感覚

「会社人間」という言葉は、人々の間でごく普通に良く使われる言葉ではありますが、使う人によってこの言葉に込められる意味が違ったりします。
     
そこでここでは、「会社人間」を、 
       
「高度成長期時代にみられたように、所属したい共同生活体の対象として、家族よりも会社の方に重きを置いた人」と幅広い意味で使います。
       
ですので、会社人間だからといって「家庭を疎かにしている人」という意味は込めていません。むしろ私が使う場合の「会社人間」は、家族もまた、「家族ぐるみで、会社が所属する共同体として捉えている人々」のことというニュアンスで使っています。
         
そして、「会社」自体も「終身雇用、年功序列、学卒者の一括採用、組織内育成」を基本としている「日本型会社」を意味しています。
         
家庭を顧みず、仕事第一にする人のことは、会社人間といわず、「ワーカーホリック」ということにします。
          
高度成長期の次の世代のバブル世代の人々には、会社を、自己の生活を維持するための手段と捉えたりする人がいますが、そういう人々も、所属する対象として、会社ではなく、地域社会を含めた家庭とする人もいれば、家庭もまた自己のための手段と捉え、精神的に所属する生活共同体を求めない自己中心の人もいるでしょう。
       
つまり、いつの時代にも、あくまで自己が中心と捉える人と、その自己は何らかの共同体に属して初めて自己として存在しえるととらえる人がいると思います。
        
そうやって「会社人間」という言葉を私なりに定義づけをしたうえで、今振り返ってかつての「日本型会社」と「会社人間」を全面的に否定できるだろうかと思うのです。
      

「会社人間が会社をつぶす―ワーク・ライフ・バランスの提案 (朝日選書) 」
パク ジョアン・スックチャ著 という本があって、紹介文には、
 
< 私生活が会社を救う? 仕事優先、家庭二の次の時代は終わった。アメリカン勝ち組企業では、大切な資源=人材確保のために、福利厚生としてではなく、ビジネス戦略としてワーク・ライフ・バランスを取り入れている。自分の仕事、家族、生きる目的を大切にしている社員ほど、業績に貢献しているという統計があるからだ >
とありますが、
 
同じ「会社人間」という言葉を使っていても、私のいう会社人間とは使い方が違いますし、そもそもアメリカの会社と日本の会社を同じものとして比較はできないと思っています。
  
 「会社人間」への評価はともかく、「会社人間」という言葉の自分なりの定義を考えていて、自分の自由意思で自分の生き方を選んでいたようでありながら、実はその選択肢そのものが時代環境、社会環境による制限があり、つまりは自由意思だけでなく、時代の影響下にあったということを感じます。
 
 「所属」ということを考えたとき、そこには階層性を仮定することができると思います。
 
 所属するにあたって、上位の所属対象に所属するために、下位の所属対象を疎かにしないこと、自分の所属対象と同位の他の対象に対して、否定や攻撃をしないこと、もしそういう状況になりそうになったら、さらに上位の所属対象へ所属しようとすること。