瞑想体験報告 虹と性欲

「燃素」という言葉をご存じでしょうか?
    
 日常の素朴な体験では、紙や枯草は、火をつけると燃えやすく、鉄瓶や鍋は、火にかけても燃えません。この世界にある色々なモノの中で、燃えやすいモノと燃えづらいモノがあります。ある時代の人は、「あるモノが燃えやすいのは、そのモノの中に燃素(マイナスの質量をもつフロギストン)が沢山あるからだ」「燃焼とはモノから燃素が放出されることだ」と考えました。
       
 1700年、ドイツの医師シュタールは、この燃焼の根源物質を考え、それにフロギストン(燃素)という名前をつけました。木の灰が燃えないのは、灰は木から燃素がすべて出てしまった状態なので、もうそれ以上燃えることがないのだと説明しました。
    
今、モノが燃えるという現象を、燃素(フロギストン)を使って説明する人はいないでしょう。
      
私達の日常の体験から生まれる素朴な世界観では、例えば、太陽は東から登り、西に沈みます。
でも、地球が宇宙の中心であり、その周りを太陽が回っていると思っている大人の人は、少ないでしょう。(まるっきりいないとは思いません。)
    
     
では、私達の行動の成り立ちを説明するとき、「性欲」を使って説明することに対して、私達は、どう思っているのでしょう。
      
「<性欲>は性行動の原因である」とか「<性欲>を抑圧することで、色々なストレスが生まれ、病気や異常行動につながる。」という説明をすんなり受け入れていたりします。
      
    
私は、「性欲」や「燃素」という「説明概念」を否定しているのではありません。
     
ある事象を説明するときに、「燃素」や「性欲」という「言葉」を使って説明していると、まるで「燃素」や「性欲」という「モノ」が、<実体として存在している>かのような捉え方をしてしまう私達の<素朴で、根源的なものの見方そのもの>を問題にしたいのです。
      
日常の体験から得られる素朴な世界観として、世界にはいろいろな「モノ」があり、その「モノ」には、それぞれ固有の「名称」がつけられている、という世界観があります。
      
しかし、「名称」がつけられているからといって、それが実体として存在している訳ではありません。その例として、これまで何度も挙げてきたのが「虹」です。
       
「虹」ははっきり見えます。しかし実体としての虹が空にかかっている訳ではありません。
        
同じように例にあげてきたのが「セーター」です。虹と違って、セーターは、触ることも着ることもできます。だから、セーターは実体として存在していると思いがちです。
      
しかし、実際は、「毛糸」を編んで、仮にある姿をしているのが、「セーター」です。
(「毛糸」もまた、羊毛が仮にある姿をしたものです。「羊毛」もまた・・・・)
      
日常生活の中で、私達はごく普通に、「性欲」という言葉を使います。
       
しかしどうでしょうか、「性欲」というモノが、実体として生命体の中に常在しているでしょうか?
        
虹やあるいはセーターのように、ある条件のもとで、たまたま現れるだけのものなのかもしれません。そして、ある条件とは、ある事象を、「性欲」という言葉で使って説明することではないでしょうか?
       
「性欲をコントロールするにはどうしたらいいのでしょう?」と、そもそも「性欲」という言葉を使って問いかけることによって、性欲に囚われるのだと思います。