立春卵 出現する未来 U理論 因果にくらまず

「出現する未来」や「U理論」を紹介するうえで、自分自身の中で整理しておきたいことがあります。
 
 「出現する未来」ピーター・センゲ他著 講談社 の冒頭に 監訳者である一橋大学名誉教授 野中郁次郎氏の解説文があり、そこに
 
< オットーの提唱しているU理論は、現象学者でもあるヴァレラのいう「保留」、つまり思考の分析的な習慣から自分自身を切り離すことから始まる。これは、頭より体を使った心身一如の直接体験から新鮮な目で気づき(マインドフルネス)を得るのが第一の基本動作である。対話の場合でも、自分の意思を保留すれば、会話が変わり新たな気づきの可能性が浮上する。
 
 さらに、「保留」から見えるものの背後にある根源的な生成過程へと意識を転換する。そうすると、見る側とみられる側の境界がなくなり深い一体感が得られるだけでなく、変化の感覚が研ぎ澄まされ、現実が今まさに創られているものと捉え、自分自身がその創生に関わっているとの自覚が生まれる。現実が開かれ、自分もその出現する現実の一部となる。つまり、出現する未来は、自分次第で決まるのだ。このような主体と客体の二元論を超える能力を磨くのが仏教の瞑想法である。>
 
 
 確認しておきたいことの一つは、
< 線型的な因果法則を否定している訳ではない。>ということです。
 
 この世に起きる一切の事象、(宇宙の創生や星々の運行から、地球の気候変動、人類社会の変化、人ひとりの行動まで)は、どのように起きているのか、と考えるとき、先ず、存在論的に、物理法則的に、科学的に仮設し、説明することができます。
 
 と同時に、考えるべきことがあります。われわれ人間は、その事象をどのように認識しているのか、という認識論です。
 
 阿含経の仏典にありますように、
 小さい石であろうが、大きな石であろうが、池に投げ込めば、石は沈みます。
 呪文を唱えても、石は浮き上がってきません。
 これは経験則からも、「現量」としても明らかです。
 
 しかし、同時に、「鉄は燃えるし、紙は燃えなかったり」します。
 
 この「小石の例え」を少し詳しく紹介します。
 
阿含経典による 仏教の根本聖典』(増谷文雄著)より
南伝 相応部経典 42−6 西地人
 
< かようにわたしは聞いた。
 
 ある時、世尊は、ナーランダー(那羅陀)なるパーヴァーリカンバ(波婆離迦菴羅)林にましました。その時、アシバンダカプッタ(刀師子)なる部落(むら)の長が、世尊を訪れ来たり、世尊を拝して、問うて言った。
「大徳よ、西の方より来たれる婆羅門は、水瓶を持ち、花環をつけ、水に浴し、火神につかえ、死せる人々を天界に昇らしめることができるという。大徳は、あまねく世人の尊敬をうけられる覚者であられるが、大徳もまた、人々の身壊れ、命終わりて後、善趣天界に上生せしめることを得るのであろうか。」
 
「部落の長よ、では、私から、なんじに問うてみたい。なんじの思うとおりに答えてみるがよい。部落の長よ、なんじはこれをいかに思うであろうかここに一人の人があって、人を殺し、物を盗み、偽りを言いなど、あらゆる邪まの業をなしたとするがよい。そこに大勢の人々が集まり来たって、『この人死して後は善趣天界に生まれるように』と、祈祷し、合掌したとするならば、なんじはいかに思うか。この人は、この大勢の祈祷合掌の力によって、死後、天界に生まれることができるであろうか。」
「大徳よ、いいえ、彼は天界に生まれることはできますまい。」
「部落の長よ、たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に大きな石を投じたとするがよい。その時、そこに大勢の人々が集まり来たって、『大石よ、浮かびいでよ、浮かび上がって、陸にのぼれ』と、祈祷し、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、なんじはいかに思うか。その大いなる石は、大勢の人々の祈祷合掌の力によって、浮かびいでて陸に上がるであろうか。」
「大徳よ、いいえ、大きな石が浮かびいでて陸にあがるはずはありません。」
「それと、同じことである。あらゆる邪悪の業をつんできたものが、いかに祈祷し合掌したからとて、死後、天界におもむく道理はない。その人は、身壊れ、命終わりて後は、悪趣地獄に生まれるほかはないのである。
 
 では部落の長よ、さらに、なんじは、このような場合には、いかに思うであろうか。ここにまた、一人の人があって、生きものを害せず、人の物を盗まず、偽りを語らず、あらゆる善き業を積んだとするがよい。しかるに、大勢の人々が集まり来たって、この人死して後は悪趣地獄に生まれるようにと、祈祷し、合掌したとするならば、どうであろうか。なんじはいかに思うか。この人は、人々の祈祷合掌の力によって、死後は地獄に生まれなければならぬであろうか。」
「大徳よ、いいえ、そのような人が地獄に堕ちるはずがありません。」
「その通りである。たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に油の壺を投じたとするがよい。そして壺は割れ、油は水の面に浮いたとするがよい。その時、大勢の人々が集まり来て、『油よ沈め、油よ沈め、なんじ油よ、水の底にくだれ』と、祈りをなし、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、なんじはいかに思うか。その油は、人々の合掌祈祷の力によって、沈むであろうか。」
「いいえ、大徳よ、油が水の底に沈むはずはありません。」
「それと、同じことである。あらゆる正善の業をつんできたものは、いかに祈ったからとて、合掌したからとて、その力によって死後、地獄におもむくはずはない。その人は、身壊れ命終わりて後は、善趣天界におもむくことは必定である。」
 
かく教えられた時、部落の長は、世尊にもうして言った。
「よいかな大徳よ。譬えば、倒れたるを起こすがごとく、覆われたるを啓くがごとく、迷える者に道を示すがごとく、また眼ある者は見よとて、暗の中に燈火をもたらすがごとく、世尊は種々の方便をもって、法を説き示された。願わくは、今日より終世かわることなき帰依の信者として、私を許し受けられんことを。」 >
 
 そもそも、なぜ(どのような文脈の下で)部落の長は、世尊に質問したのでしょう。
 経典製作者は、どういう意図をもって、この経典を残したのでしょう。
 現在の私たちの課題とどこでつながっているでしょう。
 
 同じことが、「出現する未来」「U理論」にいえます。
 
 なぜ、そもそも、ピーター・センゲは「出現する未来」を出版し、そして私は、その本をここで紹介しているのでしょう。
 
 不適切な因果論から離れ、適切な因果論で思考するためです。
 
 因果論を否定するわけではありません。といって、不適切な因果論に囚われないようにしたいと思います。
 
 私にとっての不適切な因果論というのは、例えば、「幼いころ親子関係が悪かったものは、それを一生引きずってしまう」あるいは、「生まれながらにして、人間には決められた能力差があり、そこから逃れられない」「努力しても、決して報われることはない」といったような因果論です。