人間機械論と人間小宇宙論

人間機械論といっても、色々あるようです。

デカルトに基づく人間機械論(実は動物機械論、身体機械論) 
フランス唯物論のラ・メトリが著わした『人間機械論』に基づく人間機械
ホッブスリヴァイアサンに基づく人間機械論(欲望機械論)
ノーバート・ウィーナーの言う人間機械論(サイバネティックス
人間工学、分子生物学に基づく人間機械

 どうも、後世の人は、機械という言葉の定義を曖昧にしたまま使っているように思います。
 
 機械という言葉の定義を巡ってもまた、いろいろな議論が成り立つようで、議論のジャングルに入ってしまうおそれがあります。
 
 単純に、人間の体も、人間の集まった社会も、機械製品のように、役割・はたらき・能力に制限がある様々な部品から成り立っているんだよ、という捉え方を、私は機械論仮説といっています。
 
 機械論仮説が、いついかなる時も正しいとか間違っているとかを考えようとは思っていません。
 
 機械論仮説では、解決につながらない課題に出会ったときには、機械論に固執せずに(機械論を保留し)その代替案で解決してみようよ、と思っています。そのためには、普段から機械論仮説とは違う仮説を抽斗に入れておく必要があります。
 
 臓器移植の是非はともかく、心臓移植を行うにあたって、心臓の代わりに腎臓を移植するわけにはいきません。心臓には心臓の働きがあります。でも、心臓にも腎臓にも細胞レベルでは、同じ遺伝子がその中に宿っています。
 
 この世に生まれてくる子供たちは、生まれた時点で個体差があるといいます。(胎児の段階、卵子の段階、あるいは遺伝子レベルではどうなのか知りません。)個体差は観察できるだろうけど、ひとりひとりの全ての子供には、全宇宙の根源的な夢が宿っていると捉える仮説があっていいと思っています。
 
 林檎の木に蜜柑は生らないだろうけれど、ひとつの林檎、ひとつの蜜柑の中に、それぞれ全宇宙の夢と歴史が宿っていると捉える仮説と実践があっていいと思っています。