NPO熊野みんなの家 心理学春講座資料  テーマ「称名念仏とカウン

k1s2013-03-27

はじめに 春講座の目的
 生老病死、四苦八苦。いつの時代であっても、どのような境涯であっても、人生には様々な課題が待ち受けています。どの課題解決方法を選ぶにしても、その根本になるであろうと思われる「信」について共に見つめ直してみましょう。

提起1 (自力と他力と「信」)
 もしあなたが、あるいはあなたの家族が、何らかの依存症、例えばアルコール依存症やその一歩手前の状態の中にいるとします。あなたなら、どのようにしてその課題を解決しますか。
 医療的、心理的な治療、家族の支援、宗教的な対峙など、色々な「道」が考えられます。
 
<アルコール使用障害について>
アルコール使用障害は、「脳の病」であり「行動の病」であるといわれます。というのは、飲料を摂取することにより、脳内のアルコールに対する感受性が増大してしまい、それで障害が発生するからです。
 また、長期に断酒していても、再飲酒すれば(奈良漬でも)コントロールできなくなってしまいます。
 
飲酒を中断した時に現れる症状(離脱症状)としては、発汗・不眠・悪夢・血圧上昇・頻脈・動悸・吐き気・嘔吐・頭痛・胃痛などの自律神経症状、手の震え・筋肉の硬直やけいれん発作などの神経症状、幻視・幻聴・不安などの精神症状が現れたりします。
 
今のところとくに優れた治療法はありません。自助グループとして、AA(無名のアルコール依存症者たち)等があり、断酒継続には非常に有効といわれています。 良好な転帰に関係しているのは、より高齢、配偶者がいる、仕事に就いている、治療前の飲酒量が少ない、入院回数が少ない、治療に対する姿勢がよい、人格障害をもたない、アフターケアの三本柱1) 病院・クリニックへの通院、2) 抗酒薬の服用、3) 自助グループへの参加などがいわれます。
 
アルコール使用障害を例にしましたが、何らかの嗜好品や薬物、行為(買い物・ギャンブル・ゲーム・パソコン・性)、理論や思想に対して、偏執し、時折ぎくしゃくしてしまう傾向は誰にでも見られることです。
自力で解決できればそれに越したことはありませんが、自力のみの対策では難しいことは多く見られます。そんな時、自助グループやカウンセリングは主要な治療や援助のひとつに挙げられます。カウンセリングといっても、その理論や技法は一つではありません。いずれの理論・技法のカウンセリングを選択するにしても、理論以前に根本として、相談依頼者と援助者の間に、信頼関係「ラポール」が形成されることが必須と言われています。
 
援助者が相談依頼者との間に信頼関係を築くためには、共感的な理解や受容が大切といわれています。では、共感的な理解とか受容は、具体的にどのようにして生じるのでしょうか。一つには、損得も徳不徳も越えた(自力の限界を自覚した)「根拠なき無条件の信(愛)」であるように思います。
 
提起2 (仏教全般における「信」と 称名念仏における「信」)
あなたは、「課題」という言葉と「問題」という言葉を並べたとき、どのように使い分けていますか。
 私の場合、先ず正邪、善悪の基準があり、その基準から外れていて訂正すべき事柄の場合、問題という言葉を使い、正邪とか善悪の基準からではなく、必然的に向き合うことがらとして課題という言葉を使っています。そして、問題という言葉はあまり使わないで、課題という言葉の方を使うことが多いです。というのは、正邪・善悪の基準は、条件や環境や文脈によって変わったりすると思うからです。

 日本は仏教国だと言われています。また日本人の多くは、何らかの宗門の檀家であったりします。真言宗臨済宗曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、どのような宗門であっても仏教には法印という考え方があります。法印とは、仏教の根本原理のことです。諸行無常諸法無我一切皆苦涅槃寂静四法印といったりします。
 また七仏通戒偈(もろもろの悪を作すこと莫く もろもろの善を行い 自ら其の意を浄くす 是がもろもろの仏の教えなり)があり、これが仏教の基本的な教えとも言われます。
 
古今東西、宗教、倫理、法の多くは、モノゴトを正邪、善悪に分け、邪や悪を遠ざけ、正・善を自らの力で実践することを勧めます。いわゆる、「自力」の道です。しかし、実際生きてみればわかることですが、全うすることは難しいことです。先ほどの依存症の場合、本人は基準に照らし合わせると、邪や悪であることは十分承知しています。 「自力」だけで、課題が解決できる場合は、それに越したことがありませんが、自力だけで解決できる課題は一体どれくらいあるでしょうか。また、そもそも何を以て善と言い、何を以て悪というか、判断が難しいこともあります。例えば、歴史を振り返ると、世の中が乱れ、格差が広がったとき、貧しい層の女性達が苦界に身を沈めることが多く見られました。これは、善でしょうか、悪でしょうか。
 
日本の仏教の歴史を振り返ると、そもそもの伝来(6世紀)には、政治的な意図があり、鎮護国家がその大きな目的でした。庶民に教えを説くことはむしろ禁止されていました。鎌倉時代になって、武士や一般民衆に仏教の教えを説く人々が現れました。多くの宗門、宗派があるなかで、法然親鸞称名念仏の教えを説きました。称名念仏の特徴は、乱世という時代背景もあって、浄土三部経に基づき、阿弥陀誓願を信じるということです。法然は言います。「唯往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞとおもいとりて申す外には別の仔細候はず。」つまり、「他力」の仏教であるということで、阿弥陀誓願への絶対的「信頼」を前提として、一般民衆に支持された歴史事実があります。
 
仏教でいう苦しみは、パーリ語では、「ドゥッカ」といい、思い通りにならないという意味です。「思い」とは、人間が言葉で作り出した意識、人間が自ら作り出した基準のことです。こうあるべきだとかこうしてはいけないと、自ら縛りや理想を作り出しておいて(非在の現前化)、その縛りを抜け出ようとか理想に到達しようとすること自体に、元々自力の困難さが含まれています。また、過去も未来も、後悔も不安も言葉(認識作用)から生まれます。不安の最たるものが、「死に関する意識」です。この言葉こそが、人間を人間たらしめていることであり、苦と不浄を生みだします。と言って、言葉を捨てる訳にも行きません(自力の限界)。ゆえに言葉が生み出した不安を超えるすべが、(根拠不在の)「信」であるように思います。一遍上人は述べています。「生死というは妄念なり。妄執煩悩は実体なし。然るを、此の妄執煩悩の心を本として、善悪を分別する念想をもて、生死を離れんとする事いわれなし。」
カウンセリングや医療において、その基本に「信頼」が必定であったように、人生において、世界への「信頼」が必定であるように思います。では、どうやってその「信頼」は生まれるのでしょう?

極楽往生と「信」について>
極楽往生」とは、本来は阿弥陀仏の浄土である極楽へ往って生まれること(rebirth in paradise)を言います。極楽といっても、あらゆる欲望が意のままになるところではなく、仏様から直接法話が聞け、仏に成れるところのことです。日常的な会話で使う時には、「安らかに死ぬdie a peaceful death」という意味で使われ、「大往生」と言ったりします。
 
誰しも、人生の最期には、苦しみや後悔がないことを願っているのではないでしょうか。
あなたは、あなたの人生の最期を予想して、苦しみも後悔もなく迎えることができると思いますか?
親鸞聖人は、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言われました。あなたは親鸞聖人のこの言葉、その師である法然さん、そして親鸞法然が拠り所とした「弥陀の誓願」を信じますか?
 
どのような人なら大往生をとげることができると思っていますか?
あなたが尊敬している人、大切に思っている人で、すでにこの世にいない人々のことを思い起こしてください。仏陀、竜樹、良寛、一遍、法然親鸞イエス・キリスト、聖フランチェスカ、一休、芭蕉西行、祖父、祖母、父、母、どのような時代背景の中で、どのような人生を歩んだか。そして、その人々は、「往生」しましたか。
 
あなたは、すべての人は往生すると「信じて」いますか、それとも聖人だけ、あるいは努力しある条件を満たした人だけが往生すると「信じて」いますか、その根拠は何ですか?
いま現に、執着することで色々悩み苦しんでいるのだから、その集積、その結果としての臨終が、安楽であるとは確信できない、と思う人もいることでしょう。
 
一遍上人語録の中にこのようなことが書かれています。
ある時在家の弟子の人が一遍上人に尋ねました。「念仏を唱えることで往生できるということは疑っていないのですが、いざ臨終になって苦しくて念仏を唱えることができないのではないかと心配です。」一遍上人は答えました。「只今の念仏の他に臨終の念仏なし、臨終即平生也。」「臨終のときのことは知らない、ただ、いまこのとき、念仏の申されぬものが、臨終のときに言えるだろうか。」
 
かといって、普段から自力の努力をしなければ往生できないと言っている訳でもありません。
「念仏の下地をつくることなかれ。行ずる風情も往生せず、声の風情も往生せず、身の振る舞いも往生せず、心の持ちようも往生せず。ただ南無阿弥陀仏が往生するなり。」「信不信、浄不浄に関わらず、極楽往生は決定している。」と一遍も親鸞と同じように述べられています。
と言って、往生が決まっているから好き放題に生きればいいとは言っていません。
日常生活の具体的な一つ一つの場面で、「愛」「信」「微笑み」の側を選ぶのか、「無関心」「憎しみ」「妬み」「愚かさ」「怒り」の方を選ぶのかという、自身への問いかけと決断、最低限の自力は大切なように思います。
「信」「愛」「微笑み」「優しさ」の方を選びたくても、私にはその力がない、私こそ愛や信を選ぶために、苦しい境遇(穢土)の中で、まず愛され、安らぎたいと思うのは人情だと思います。だからこそ、弥陀の誓願法然親鸞、一遍、イエス・キリストの言葉を信じ、生きてみるのです。親鸞は言います。「たとい法然上人に騙されて、念仏して、地獄に落ちることになっても私は後悔しない。」

<科学教育を受けて育った現代人にとって、「信」とはいかなるものでしょう。>
私達現代人は、子どもの頃から科学教育を受けています。そんなあなたは、「弥陀の誓願」や「イエスキリストの復活」を信じられますか? 西洋社会では、「神は死んだ」と言われるように、仏教国においても、浄土世界があると信じる仏教徒はどれくらいいることでしょう。
 
「弥陀の誓願」ということが、どのような時代背景の中で語られるようになったのかを知ることが大切と思います。イエス・キリストの時代においても、鎌倉新仏教の時代においても、当時の一般民衆は、当時の宗教文化によって定められた自力の修行・戒律を行える状況ではありませんでした。
 
ですので、称名念仏も、原始キリスト教も、知や行によって、自力によって課題を解決しようとしていないという視点への転換と「他力」の実践、実行が大切になってきます。知を否定しているのではなく、知を超えているということです。実際、法然は、自力の道、聖道門を否定していません。
 
「信」は、知性で理解することではなく、実践して味わうことです。しかし、知性は実践の邪魔をしがちです。かといって「信」は、知性を否定して「盲信」することでもありません。自力の限界を味わい、「信心決定」するだけです。
 
倉田百三著「法然親鸞の信仰(上)」には、こうあります。
<仏教には、この娑婆世界をそのまま寂光度と見る法門もあるけれども、それとても、一度この世界を穢土として痛感して後、その穢土をそのまま寂光土として観じる血の涙のような苦闘をし、氷のような諦観をするのである。浄土門とても、信心決定して、念仏の世界に往生が定まると、この娑婆をその矛盾、不調和のままに蓮華国と感じ、自然法爾の赴くままに、任運して生きることができるようになるのである> 信心決定すれば、矛盾や不調和が無くなるとは述べられていません。
 
一遍上人は、こうも述べています。
「自力他力は初門のことなり。自他の位を打ち捨て、唯一念、仏になるを他力とはいうなり。」
「とにかくに まよふ心をしるべにて 南無阿弥陀仏と申すばかりぞ」
「決定というは名号なり。わが身わがこころは不定なり。身は無常遷流の形なれば、年々に生滅す。心は妄心なれば虚妄なり。たのむべからず。」
 
どうでしょう、以上の文章を読んでいて、「他力・信」の味わいが未体験の人は、知性が反発しているのではないでしょうか。そういった反発があるがままでも、一遍上人は往生決定と述べられています。
 
知性の反発をなだめて、知的に「信」を味わうひとつの方法として、「絵を描く」ということがあります。絵を描くのが苦手な人ほど、味わうことができるでしょう。講座は、4月14日日曜午後2時より