NPO熊野みんなの家 の 「止観瞑想」

NPO熊野みんなの家 の 「止観瞑想」 Samatha-Vipasyana
The method of practicing concentration(集中) and contemplation(沈思・熟考)
はじめに
 私は1954(昭和29)年生まれです。 私が小学生の頃の暮らしと今(2016)の暮らしを比べたとき、科学技術の発展などにより、ずいぶん便利な世の中になりました。

 
 その一方で、商品や情報が洪水のように押し寄せてきます。 それに伴い、澄んで透明だった、故郷の海や川も、濁ってしまいました。 (そして私たちの意識も。)

 人類全体では、グローバル化、分業化が進む中、環境は汚染・破壊され、経済格差は拡大しています。
 
 また世相や時代がどうあれ、人は仏教でいうところの四苦八苦、生老病死苦や人間関係苦と向き合うという課題があります。 如何に生き、如何に老い、如何に死を迎えるか。 思い通りになるわけでない我が身や世の中とどう関わっていくのか。 課題は尽きません。
 
 そのような中で、私は身心霊のバランスを保つひとつの方法を教わりました。

 そのひとつの方法というのは、「止観瞑想」です。 「止」は、集中力と観察力、選択力、調整力を養い、心の安定をもたらします。「観」は「止」によって得られた観察力、集中力によって、具体的な課題と向き合い、智慧を生みます。

止観瞑想を実践することによって、読解のスピードが上がり、読書量が増えました。苦手だった絵画を楽しむことができるようになりました。同じく苦手だった楽器演奏(ウクレレ)も楽しんでいます。 溢れる情報の中で、煮詰まってしまいそうなとき、頭の中、胸の中、心の中がすっきり整理されます。 右か左か、進むか退くか、信不信など悩みつつ、惑いつつ、そのまま平衡が保たれています。

 止観瞑想といっても、難しいものではありません。誰もが、日常の中で実践できます。しかし、あまりその方法・内容について、知られていないようなので紹介することにしました。
 言葉足らずなところもありますし、言葉では表現しきれないこともありますので、どのような些細なことでもいいので、お尋ねください。

〇「止の瞑想」について
 私たちは実に色んな「ものごと」に取り囲まれて生きています。そしてそれらから、色んな刺激、情報がやってきます。私たちは、それらの刺激や情報をもとに判断し、何らかの行動を起こします (色受想行識)。 必要な刺激、情報を見過ごすことなく受け取るには、感覚の敏感さが大切です。 逆に多すぎる刺激・情報は、混乱と疲労をもたらします。 「意馬心猿」という言葉がありますが、私たちは、刺激に対して習慣的、機械的に反応を繰り返すことが多いです。
 感覚を敏感さだけでなく、必要でない情報に対しては反応しないという調整力が身につくのが「止の瞑想」です。
〇「観」の瞑想について
 瞑想といえば、「無念無想」をイメージする人がいますが、「観」の瞑想は、積極的に課題対象について、考えます。 英語ではcontemplation(沈思熟考)と訳されます。
 

〇具体的な実践方法 もっとも簡単なやり方 呼吸を見つめる

 古今東西色々な瞑想がありますが、「自分の呼吸を見つめる」というのが多くの瞑想で基本になっています。「呼吸」は、今ここで現に起こっている具体的な対象だからです。

 原始仏教では、瞑想のことを「念処」といっています。「四念処経」という経典があります。そこでも第一歩は、自分自身の姿勢を整え、呼吸を見つめることです。

 「呼吸を見つめる」とは、文字通り自分自身の呼吸に注目し、自分がいま息を吐いているか、吸っているかを見つめます。 息を吸えば、肩が上がったり、胸やお腹が膨らみます。そういったからだの変化をとらえ、息を吐いているときは「吐いている、吐いている、吐いている・・・」、吸っているときには「吸っている、吸っている、吸っている・・・」と心の中で言葉にします。
 
 座禅に「数息観」といって、自分の呼吸を見つめ、数を数える方法がありますが、案外これは難しいです。ですので、いきなり数息観を始めるのではなく、日常生活の中で、何かの折り、呼吸を3回位見つめることから始めるといいでしょう。

 実践してみるとわかることですが、呼吸を見つめ始めると、努力しなくとも自然に呼吸はゆったり深くなり、丹田式呼吸となります。すると背筋が伸び、姿勢がよくなります。

 太極拳に、「調息、調身、調心」という言葉があり、呼吸を整えていると、姿勢も整い、心も整います。

 日常生活の中では、「三度の食事」「おやつ」「お茶」もまた「止瞑想」となります。方法としては、一口目をじっくり味わうことです。 しかし、例えば一口30回と回数を決め、数を読むことが主になってしまうと、瞑想から外れていきます。

 今ここで現に起こっていることに集中して、丁寧に味わうのが、「止瞑想」です。
 
「今ここに集中すること」(be here now)によって、過去の出来事への後悔や未来への不安が消え、心の安定が得られます。(軽安きょうあん)

とはいえ、人間は社会性の動物なので、他の人々と関係を持ちながら生きていかねばなりません。その時は、過去に思いを馳せることも未来のことを考えることも必要になってきます。ですから、後悔や不安は復活します。 過去や未来に思いを馳せながら、後悔や不安に支配されないためには、「観の瞑想」が必要となります。


〇姿勢を整えることから改めて始める「止瞑想」 調身

 静かな場所を選びます。座り方は座禅の結跏趺坐、半跏趺坐、正座、あるいは椅子に座ってなど、自分の体に合った無理のない座り方ならどれでもいいです。私は、ヨガの達人坐をお勧めします。その場合、座布団などを自分の体に合った高さにして座ります。

 坐ることが困難な人も、寝たままで、止観瞑想は可能です。 (臥禅 寝ながらヨーガ)
 
 座禅では「揺身」といって、からだをゆっくり左右前後に揺らして重心の位置を確かめ安定した位置を探します。段々揺れを小さくしていきます。 頸の筋肉にだけ注目して、少しだけ仰向いたり、うつ向いたりし、緊張感のない位置を探ると、同時に背中や腰の筋肉も微調整され、無理のない姿勢になります。そうやって、無理のない姿勢を探ること自体が「止の瞑想」となります。 姿勢が安定したら、呼吸を見つめ始めます。

〇「観の瞑想」  観の観

 私たちは、色んな人やモノ、自然環境に囲まれて生きています。そして、常にそういった人やモノ、自然環境から発せられる刺激・情報を受け取りながら生きています。
 
 刺激や情報を受け取る第一歩は、私たちの感覚器官ですが、私たちの感覚器官は私たちにやってくる刺激・情報のすべてを感じ取っているわけではありません。 放射能を直接感じ取ることはできないし、光にしても音にしてもある範囲内しか感じません。
 大学で心理学を学ぶと、まずこの感覚器官の限界や錯覚から学び始めます。 
 
 更に、私たちは私たちの感覚器官が受け取った刺激や情報を、すべて知覚(意識的に自覚)しているわけでもありません。

 私たち人間が人間である特徴のひとつは、「ことば」を使うことです。言葉を使って考え事をし、情報を伝えます。 この言葉があるおかげで、他の動物たちとは違って、文化文明を発達させ、自然の営みに影響を与えています。

「人間は万物の霊長である」という言葉がありますが、人間の最近400年間の歴史は、人間の理性や知識、科学力が、私たちが抱えている課題を解決できると思い込んだ驕りの歴史であったとも思います。

食糧増産とか長寿の実現は、確かに私達人間の理性、科学技術のおかげ、言葉の働きのおかげとも言えますが、同時に、科学技術は自然を破壊し、多くの種の絶滅をもたらし、飢餓や経済格差や戦争を解決できていません。

 「止」の瞑想によって、集中力、観察力、調整力が増します。その集中力、観察力、調整力によって、私たち自身の知覚・認識の過程、言葉の働きを観察し、その限界性を自覚することが「観の瞑想」の課題の最初のひとつです。
 
〇「瞑想」を意味するほかの言葉について

「メディテイション meditation」
動詞meditate (メディテイト)
to think seriously and deeply about something [Longman 英英辞典]の名詞形
 聖書の一節を取り出し、その内容について真摯に、深く考えること を言います。

「センサリーアウェアネス」「アウェアネス
 「アウェアネス」は、「気づき」とか「目覚め」と訳されます。

〇呼び名は違っても、「止観瞑想」と同じように「身心霊」の平衡をもたらす事柄について

☆写生・スケッチ・ボタニカルアート あるいは楽器演奏
 よく見て、差異・変化を感じ取り、それを筋肉の動き・変化に移し替える。同時に、差異をすて、簡略化、般化する。 感覚の感度を調整できるようになります。

太極拳 
太極拳は動く瞑想ともいわれます。演武の型を習得する以前に、基礎として、呼吸法、站椿功、歩行を習います。
 例えば、呼吸と共に腕を動かしますが、その時筋肉の緊張と弛緩に意識を集中すれば,それはそのまま止の瞑想になります。歩行の時、足の裏が地面に接地する位置の移動、あるいは重心の位置の変化に注目すれば、それも止の瞑想となります。

☆アレクサンダーテクニーク、フェルデンクライスメソッド、野口体操、ヨガ、その他ボディワーク。あるいはマッサージ
 今この時の「からだ」の状態、動き、変化を丁寧に観察し、感じ取ることは、「止の瞑想」になります。ラジオ体操でもやり方によっては、瞑想となります。

☆咀嚼
 すでに述べましたが、丁寧に味わって食べる、飲む行為は、そのまま「止の瞑想」となります。


〇「止観瞑想」と「哲学・人間学

 「哲学」は、世界がどのように成り立っているかを追究する「存在論」とその世界を私たちはどのように認識するかを追究する「認識論」からできています。

 仏経は、約2000年の瞑想実践を通して、存在論と認識論を追究してきました。その成果のひとつが「般若心経」「中論」と言えましょう。

 西洋哲学は、近代になってから心理学、人間学を通して、認識論を追究してきました。私達人間の理性には限界がある、という認識が大事であると思います。言葉はすべてを言い表すことができるわけでもないし、科学はすべての課題を解決できるわけでもないでしょう。
〇瞑想と「言葉」  (認識論) (言語学)

 私たち人間の特徴は、言葉を使って、思考し、認識し、情報を伝達することです。そのおかげで、文化文明を発達させてきました。

 「言葉」は、私たち人間が、「世界」の一部分を、人間の視点で切り取って(境界をつくり)、それにラベルと意味・価値を付けたものです。 言葉を使っているうちに、私たちは、世界がまるで独立・対立したものの集まりのようにとらえてしまいがちです。これを要素論といいます。 

 要素論の物の見方をすれば、生と死は対立し、お互いに相いれません。

 ところが、仏教は瞑想実践の中から、「色即是空 空即是色」というものの見方をします。

 瞑想を実践することにより、私たちは世界そのものを見ているのではなく、言葉を通してものごとを見、認識していることに気づきます。そして、世界の見え方、捉え方にも色々あることに気づきます。言葉や理性(ロゴス)の限界を知ります。

〇瞑想と臨死・臨終 念仏 自力と他力

 ひとは必ず老いて、この世を去る、ということを、私たちは体験を通じて知っています。 しかし、「私の死」は、永遠の謎です。 不安の材料ともなります。 
実際の自分の臨死・臨終にあたって、止観瞑想を実践し、今ここに心を定めると不安もなくなるであろうと、これもまた体験によって予測することができます。 ただ、臨死・臨終にあたって、止観瞑想が果たしてできるのか?

 一遍上人語録が参考になります。
「生死は妄念なり」「只今の念仏の外に、臨終の念仏なし」 また瞑想といえば、「自力」と捉えがちですが、一遍上人は「自力他力は初門のことなり」と言っています。
 

〇「止観瞑想」を行うにあたっての注意事項

 止観瞑想を行うと、感覚が敏感になり、様々な能力も開発されます。そのことによって、成果も得られます。しかし成果があればあるほど、今ここを手段としてしまう危険性があります。

 瞑想トレーニングに慣れてくると、ただ座っていることにどんな意味があるのか、と疑問が生じ、もう止めにしよう、という思いが湧いてきたりします。そんな時も、そういう思いを観察しながら続けてみてください。そこを通りこしたら、瞑想から離れられなくなります。

〇「止観瞑想」と痛み
 呼吸を見つめる要領で、具体的にどこがどのように痛いのか、痛みを見つめます。痛みがなくなるわけではありませんが、痛みの質が変わったり、場所が限定されていきます。指圧のツボが分かってきます。

〇瞑想と階層性、二重性
 瞑想を続けていると、瞑想をしている自分を上から見つめている自分の視点が生まれます。ものごとの成り立ちを見続けていると、ものとことが階層構造になっているのが見えてきます。
 例えば、「住宅」というのは、<家、車庫、庭、電線、住む人>といった「もの」が織りなす「こと・現象」です。その「家」も、<床、柱、壁、屋根>といったものが織りなす「こと・現象」。そして「柱」も、<木、塗装、加工>が織りなす「こと」です。ものはことであり、ことはものである、だから「ものこと」といいます。
 階層の違う<住宅、家、柱、木、炭素>を、同列、同次元で語ることはできません。同じように、<からだ、心臓、細胞、たんぱく質>を同列、同次元に語ることはできません。 からだ全体は生きていても、細胞レベルでは、毎日死んでいます。 生の中に死があり、その生は死の中にあります。
 「今ここ」は、時の流れの「過程」であると同時に、永遠のひとときでもあります。

〇参考になる文献

 「ミャンマーの瞑想」−ウイパッサナー観法 マハーシー長老著 国際語学社発売
 冒頭の「一切の世俗に対する執着を断っておかねばなりません。」という一文に、真面目な人は躓くかもしれませんが、心に留めつつ、基本瞑想法を実行してみましょう。 どこで行っても空気が美味しいと感じられたら、さらに続けてみましょう。

 「現代語訳 天台小止観」 関口真大訳 大東出版社
 <涅槃の世界は、そこに入るためには種々の途があるけれども、その中でも最も効果的で肝要なものは何かといえば、止と観の二法に勝るものはない。なぜかといえば、止は、まよいへのとらわれを押さえつける第一歩であり、観は、迷いそのものも断ち切る力であるからである。>

アドラー心理学トーキングセミナー」性格はいつでも変えられる 野田俊作著 星雲社
 心理学の本であり、そのまま瞑想入門の本でもあります。

NPO熊野みんなの家では、毎日瞑想生活を送っています。実践してみたい人はいつでもお越しください。
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