風さやか

日本人には、瞑想というと、「無念無想」という言葉を思い浮かべる人が多いように思います。これは、禅文化の影響なのかもしれません。
 
そういう瞑想もありましょうけど、積極的に念を興し、想を興す瞑想もあります。
 
テーマを決めて、そのことについて、徹底的に考えるのです。
テーマは
例えば、「死ぬということ」「老いるということ」
「人生の大事って何?」「苦しみ・不安はどのようにして生まれ、どのようにして滅するか?」
といったことです。
「考えるということはどういうことか?」と考えることについて考えたり
「私は、周りの人や自分自身を疎外していないか?」ということをテーマにしたりします。
もっと具体的には
「昨日、私はつれあいの発した言葉にむかっときたが、その感情はどの様な過程を経て生まれたのか?」「どのようなオペラント学習をした結果なのか?代替案は何か?」と考えたりします。
 
あるいは、
「今私は考え事・あるいは行動をしているが、その目的は何か?」であったり
「今日私は一日色々な行為をしたが、そこに自由意志があったか?」であったりします。
 
 「このもやもやした気持ちはなんだろう?」「不安」「この不安は何処からきているだろうか?」「なかなかレポートが書き進まないから」「レポートが書き進まなかったら、どうして不安になるのだろう」「レポートを書いて単位を取らないと、資格が取れない。資格が取れないと、生きていくには不利だ。」「資格がないことはそんなに不利なことだろうか?」「資格はあるには越したことがないけど、必要条件でもない。」「不安は、未だ起こってもいない未来についてあれこれ考えるから生まれる。資格を取ったとしても、やはり、起こってもない未来をあれこれ考えたら、不安が生じるだろう。」「今自分にできることは何だろう?」
と自分との対話を続けたりします。

いきなり、このような「調心」的な瞑想に入ることもありますが、手順としてはやはり「調身」「調息」をします。
 
出入息を観つめます。息の長さを観つめます。出入息に伴うからだの動きを観つめます。
 
観察し続けて、集中し、より細かな弁別を重ねていきます。
 
観察し、より細かな弁別を重ねていくと、例えば、絵が描けるようになり、また、絵を描くということが、瞑想になります。 そうして、脳内に今までになかった回路が、出来上がっていくように思います。
 
例えば、ウクレレの指使いの弁別がスムーズに行き、上達につながります。そしてまた、丁寧に、弁別を意識して練習を繰り返すことが、瞑想となり、やはり脳内の回路が出来上がるように思います。
 
例えば、昨日つれあいの言葉にムカッと来たことを観察すると、まるっきりの自由意思でそうなったのではなく、条件反射、オペラント反応(習慣)としての怒りの感情であったりします。
 
丁寧な観察を続けていると、相互作用が見えてきます。単純に「一因一果」とは言えないことが見えてきます。階層が見えてきます。部分が全体を形成し、全体が部分に反映されることが見えてきます。
 
「全体が部分に反映される」などと簡単に言いましたが、これを絵に描くにはどうしたらいいでしょう。でも、観察し描き始めたら、描いているうちに、説明しようという気持ちはどこかに行ってしまって、描くこと・観ることに没入してしまうように思います。
 
 
< となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして >
 
国師、此歌を聞き「未徹在」とのたまひければ、上人またかくよみて呈し給ひけるに、国師、手巾・薬籠を附属して、印可の信を表したまふとなん

< となふれば、仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 >
 

「オーガズムなくてもあっても風さやか」