侵略者は貧しい

k1s2013-05-27

「侵略者」は 貧しい
侵略者は「心 ここにあらず」
侵略者は いつも足りないモノを数えている
 
今 じぶんをふりかえって
心ここにあらず 
足りないモノをあれこれ数えていたら
知らない間に 侵略者に目を閉じている
気付かないうちに 侵略者になっている
 
いま じぶんをふりかえって
重力が「桎梏」と感じたり
「単なる物理的な力」でしかなかったら
それは大地との「絆」を見失っている
私と大地は たがいに魅きあっている
重力はその「絆」
だからダンスではなく「テベ」を踊る
輪になって 手を繋ぎ 肩を組んで
(映画を観た後、私の中から浮かんできた詩です)
 
 
5月25日は、龍神村で映画「カンタ・ティモール」を見ました。
東ティモールは、侵略者たちによって、家の9割を焼かれ、人口の三分の一を失いました。
そんな彼らは歌います。
「人類はひとつの兄弟なのさ 父もひとり 母もひとり 大地の子ども 憎んじゃだめさ、叩いちゃだめ 戦争は過ちだ、大地が怒るよ」

何度でも観たい映画でした。色々感じた中で、「歌」の力を感じました。
紀貫之は「古今和歌集仮名序」の中にこう書いています。
「力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」
 
私たちを取り巻く状況には厳しい面もあります。一体どこから手をつけたらいいのかと思ってしまったりもします。私は、それぞれがそれぞれの場から、自分に課せられた課題を「歌にして歌う」ことだと思っています。
 
自分の課題を詠う事が「今ここを生きる」ことだと思っています。
 
「歌を歌う力」は、ミヒャエル・エンデの作品「はてしない物語」の最後のむすびにあるように、「ファンタージエン(希望と想像・創造の世界)に行って、また戻ってくること」によって生まれると思っています。
 
私たち近代人の多くは、ファンタージエンを見失っていると思います。私が映画の中に見いだしたのは、厳しい現実の中で、厳しい現実とファンタージエンの両方を生きている人々でした。
 
近代人がこのままの(侵略者の)生活を続けていくと、全てを破壊し尽くして、やがて窒息していくように思っています。破壊し尽くす前に「自我の崩壊」があるかもしれません。
そういった「自我の崩壊」もまた、生命現象かもしれません。
 
小田垣雅也氏は「現代のキリスト教講談社学術文書の中でこう述べられています。
<自我の崩壊と「あるがまま」の生活とはまた、自我による認識の対象としての自然や、科学技術の資源としての自然の否定でもある。そのような自然観の否定によって、本当の自然は回復されよう。人間は自然の中にあるのであって、自然の外に、自然の支配者、利用者としてあるのではない。「在るがままの現実に即して、全的存在の意義を髣髴(ほうふつ)す」とは大正ロマンチシズムを生きた島村抱月の墓碑銘だが、自然とはそういうものだ。そしてそれはそこにおいてこそ、絶対他者なる神が、在でありつつ、不在でありつつ、隣在しているところでもある。>