重力は大地の絆

k1s2013-05-28

 自閉症傾向と思われる人々が、リズムある反復運動を繰り返すことがあります。このリズムある反復運動のことを、常同行動、自己刺激運動、ロッキング・フラッピングと言ったりします。
 ぴょんぴょん飛び跳ね続けるという行動も、自己刺激運動といわれます。みっともないからと制限する時代もありましたが、最近では、自己刺激運動は、過度な不安や恐怖感を和らげ、精神を安定させる行動と捉えられるようになりました。制限するのではなく、もっと効率の良い行動に置き換えたりします。
 ラジオ体操をする機会も少なくなって、また大人になって、ぴょんぴょん飛び跳ねるということは、めったにしなくなりました。やはり私は、大人がうれしいからと言って、ぴょんぴょん飛び跳ねるのは恥ずかしい感じを持ってしまいます。
 しかし、自己刺激運動のことを知って、また「カンタ・ティモール」の映画の中で、「テベ」を知って、飛び跳ねるということは、飛ぶことだけでなく、着地することもまた喜びなんだということを思い出しました。「重力は、大地との絆」だと。
 飛び跳ねるだけでなく、「四股を踏む」「素足で大地を踏む」ことも何とも言えぬ快感が走ります。
 
 止観瞑想を通じて、丁寧に、自分のからだの動きを観察していると、筋肉運動ということが不思議になってきます。
 普段は、自分の意志で自分の随意筋を動かしていると信じて疑いませんが、止観瞑想の中では、随意と不随と境界が消えていきます。私は、ウクレレでの弾き語りを行っていますが、何度練習してもまだできない指使いがあります。随意筋でありながら、随意ではないのです。喉が渇いて、水道栓をひねり、コップに水を汲んで飲む。随意で行ったつもりですが、一々どの筋肉繊維にどれくらいの力でいれ、どの関節をどのように曲げと命令している自覚はないです。全体としては随意でも、細部は随意でもない。
 
 そういったことを私は不思議に思うのですが、自閉症傾向といわれる人々の中で、ある人々にとっては、そんな手の動きが不思議を通り越えて、「自分自身ではない」と感じてしまうようです。目の前で色んな動きをする、「自分の手」が、「自分ではない」と感じてしまう人にとって、そのような手は、不思議ではなく、恐怖の元にもなります。フラッピング、手を繰り返し繰り返し振っていると、その時は自分の手という感覚を持てるようです。だから、いつまでも繰り返す。
 
 止観瞑想を繰り返していると、それぞれの人が日常の中で、健常と健常でないモノゴトの間に引いて信じて疑わない様々な境界線がゆるくなってきます。境界線が無くなるのではなく、ネットワーク化していくのです。むしろ、自分の思い込んだ境界線を守ろうとすれば、かえって恐怖や不安が生まれるように思います。そして、自分が全てを何とかしなくてはと、自力に固執して、あせったりするのではないでしょうか。
(自力に絶望し)境界が緩やかになり、ネットワークがみえたら、そこに安心が生まれます。
だから、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」なのでしょう。
 
 皮膚が、私と世界を隔てる確固たる境界線と思い込むようになったのは、「言葉」の働きだと思います。自分と自然との間に境界線を引き、自然を対象物、資源としてしまったのも「言葉」の作用だと思います。「言葉」が、世界に境界を引き、ものごとを「実体化」していく。精神や魂ということがらでさえ、精神の物質化をもたらします。しかし、このコトバの力によって、私たち人類は文明を築いてきました。だから、私たちの苦しみの根は深いです。
 
そして、このコトバの呪縛を解いていくにあたっても、コトバの力の働きが大切になってきます。