集中力と瞑想

 私達は、日常生活の中で、ごく普通に「集中力」というコトバを多用します。
 では改めて「集中力とは何ですか?」「どうしたら、身につけたり、強くできたりするのですか?」と問うたとき、答えられる人は少ないようにも思います。

 国語や心理学の辞典には解説があるかもしれません。例えば、「一つの事柄(刺激、感覚、アイデア、思考、行動)に意識を集中させ、持続させる能力のこと」と。
 そもそも、辞書は、あるコトバを、別のコトバで置き換えたものです。

 そこで、集中力とは何かと問うのではなく、どのような状態か、どのようにしてその状態を作り出せるかを考えてみようと思います。
 「集中」という状態の反対の状態について考えてみましょう。
 刺激に対しての慣れ、退屈、疲れなどが考えられます。 「散漫」というコトバも浮かんできます。

 「集中」という独立したコトバがあっても、「集中」という独立した現象がある訳ではありません。集中する誰か(主体)と環境と、集中する何らかの事柄、対象があって、集中という状態が生まれます。

 ですから、先ず集中する人の体調が大事です。これは集中に限ったことではないですね。

 好きなこと、関心があることならば、集中できるのに、強制されたことは集中が難しいです。脳科学によれば、脳は疲れないそうです。集中しようとする事柄に、関心や意味を感じていないときに、集中するのは難しいです。

 「集中とは、一つの事柄に意識を向けること」とコトバで表現できますが、「一つの事柄」とはなんでしょう?
 
 親が「うちの子は、ゲームなら集中するのに、勉強となると集中できない」と言ったりします。

 勉強は、ひとつの事柄であって、同時に一つの事柄ではありません。
 ここに、英語は好きだけど、数学は苦手の子どもがいたとします。遊びと比較したとき、勉強は一つの事柄ですが、勉強そのものをみたとき、英語の勉強と数学の勉強は一つの事柄ではありません。
 次に数学の宿題という事柄をみたとき、数学の宿題は色々な分野の問題からできています。幾何と因数分解は一つの事柄とは言えません。数式を解くことと文章問題を解くことも同じとは言えません。

 文章問題にしても、一行の文章で書かれているのではなく、いくつかの文章(事柄)からできています。その文章は、単語からできています。

 数学の問題でいえば、ひとつの事柄に集中するとは、全体を要素に分け、その要素間の違いや関係、関連を見いだしていくことでしょう。課題の解決に関係のない余分な関係を捨てていくことでしょう。
 
 単語の意味は、その単語だけを見つめていてもわかりません。単語の意味は、文章(単語同士の相互関係)の中で意味を持ちます。文章の意味は、文脈(文章同士の相互関係)の中で意味を持ちます。

 数学の文章問題を前にしている子どもは、その文章だけでなく、これまでに出会ってきた文章や単語のうち、関係のあるものとの関係を見いださねばなりません。
 
 数学の問題だけでなく、多数ある関係の中から、課題を解決することにつながる関係とあまり意味を持たない関係をより分けることを私たちはいつもしています。
 
 例えば、目的地へ行くには、自動車で行くのか、電車で行くのか? 自動車で行くとしたら、どの道が空いているか、料金が安いのか? といった具合に。 ゲームに関心のあるヒトには、新しいゲームが発売されたという情報は、ゲームを買うために自動車が便利なのか電車が便利なのかということと関係してきたりします。

 「一つの事柄」というコトバがあっても、そのひとつの事柄は、多数、無数の外の事柄とつながっています。

 どこに境界線を引いて、「ひとつの事柄(グループ)」としてまとめるか?

 この要素とこの要素は、同じ、似ている、関係がある、だから同じ仲間とまとめる、あるいは違うと区別する、より分ける、その基準をどこに置くのか?

 私達は、ほぼ無意識的に、境界線を引き、より分けています。

 より分けられない状態が、混乱であったり、迷いであったり、うつであったりします。

 より分け方が固定してしまった状態が、退屈や思い込みにつながったりします。

 仮に境界線を引くが、決めつけないという在り方が大切になってきます。
 
 集中力だけでなく、いずれの事柄も、いきつくところは、全体との関係性、コトバと行動の問題、世界観(世界仮説)と関わってきますね。