透明人間と世界観

 「透明人間」が、透明になる方法は色々あり、薬物により、細胞が透明化するという方法があります。 薬物の効果が切れると、透明でなくなり、それがドラマの筋立てを面白くします。 物語としては単純に楽しんでいますが、物語のベースになっている人間観や世界観を思うとき、疑問が湧いてきます。

 作者は、皮膚に包まれた内側を独立した一個人と見ているが、もし食後すぐに薬を飲んだとして、胃や腸の中の未消化の食べ物までどうして透明に成るのだろう。腸内細菌も透明化するのだろうか、と。 もしすべての細胞、赤血球も透明に成るとして、光があたれば屈折率の違いによって、透明ではなくガラスの置物のように見えてしまうのではないか、ウサギの毛や人間の白髪、白砂糖の結晶は、実は透明であり、やはり光の屈折で白く見えるのだろう、だから透明人間も白く見えるだろうと思ったりします。 空気と屈折率が一致するように変化しても、人間には体温があり、体温で暖められた空気はそこでやはり屈折率が変わるだろうとも思います。

 確かに、皮膚は一つの区切りであり、「皮膚に包まれた内側が<私>である」と日常の感覚の中では思いがちですが、じっくり考えると、私と私を取り巻く環境との境は、あいまいです。 これはからだ・細胞だけでなく、「私の考えや意識」「私の行動」についても言えます。

 私の考えや意識は、コトバになって現れます。 そしてそのコトバは、私が作り出したものではなく、食べ物のように外(環境)から取り入れたものです。

 そのコトバの中に、「時間」があり、実はこれは透明人間のように実体がなく、人間社会が作り出したものではないかと思ったりします。

 家(からだ)は、屋根や壁(ひふ)によって外界と隔てられます。しかし、出入り口や窓や換気口や排水口がないと、家の働きをなしません。 家(わたし)は、電気、ガス、水、人間といった家でないものが出入りするから、家(わたし)といえます。