哲学 まともな懐疑 言語分析 解釈

 今から約40年前に、哲学不要論を聞いたことがあります。実のところ、今の大学生のうち何%の学生が、哲学や人間学を学ぶのでしょう?

 伝統的な哲学は、この世界の究極の存在は何で、どのようであるかを問う「存在論」と、それを人間が、どのように認識するかを問う「認識論」から成り立っていました。
 人間は亡くなるけれど、世界の方は続いているようなので、「存在論」が主、「認識論」は従、と捉える時期がありましたが、古代から瞑想者たちは、「存在論」と「認識論」を一体に捉え、「認識」が私たちの苦しみと深く関わっていることを観じてきました。

 現代においては、「認識」を問うことは哲学だけの領域ではなくなりました。生物学(生理学や解剖学を含む)、心理学、社会学などで問います。
 がしかし、自分の見方考え方を棚上げすること、思考や認識において使うコトバの働きについて学ぶこと、同じものごとを目の前にし体験したとしても、その解釈はいくつもあること、を現在の学校で体系的に学ぶことはほとんどないと思います。このことが、後々家庭生活や社会生活で争いや苦しみを生む一因となっていると思います。