「地球生命誌」と 今生の私たち一人一人の人生と コトバと 苦しみ

〇コトバと時間と生死
 20歳代の頃、大型定置網の漁師をしていたことがあります。 定置網は、漏斗状になった網が何段にも繋がっていて、入るのはたやすく、出るのが難しい構造になっています。
 奥の方へ追い込み、最期に網を巻き上げて捕獲します。

 定置網には、大小様々な魚が入ります。その中でも私の印象に残っている魚が、シイラです。 多くの魚は、網の中で逃げまどいます。そんな中シイラは、目の前の死などどこ吹く風。狭い網の中で、小型の魚を追いまわし食べようとするのです。 「死」を認識していません。

 でも、人間が使うような「コトバ」を持たないシイラにとっては当たり前のことです。 確かに、時間も死も、シイラの外側にはあります。 が、それは人間が、コトバで焙り出した「死」や「時間」です。

 シイラだけでなく、野に咲く一輪の花もやがて枯れます。 花を訪れる蝶や鳥たちも必ず死にます。しかし、将来の死について悩んだり、不安になったりすることはありません。

 現代人が抱えている様々な課題(例えば、貧困、戦争、環境破壊など)の原因のひとつは、コトバ・理性だという考えがあります。 地球史を振り返った時、ヒトがこんなに物質的に繫栄しているのは、コトバ・理性のお陰でしょう。 自動車も、インターネットも、核兵器も、銀行も、人間がコトバを使うからできたことです。

 現代人の課題解決法として、コトバ・理性を否定し、捨てようとする考えがあります。 自然主義、反理性、反文明、ロマン主義神秘主義などがあげられます。 スピリチュアリズム心霊主義)にもその傾向があります。
 
 生理学的にはヒトとしてうまれながら、コトバを持たなかった例として、「野生児」があります。一生野生児として過ごせる環境の中で生きるなら、それもまた一つの花として可能でしょう。
 
 しかし、一旦コトバを媒介とする人間社会に生まれたものにとって、コトバなくして、コトバを捨てて生きることは困難であると、私は思います。
 コトバを知る以前の幼いヘレンケラーがそうであり、いわゆる自閉症スペクトラムといわれ、自分自身のことを語るコミュニケーション方法を持たない人が、その例です。
 
 ヘレンケラー、自閉症スペクトラムといわれる人々、類人猿など、彼らにはコトバを理解する力、使用する力がないのではなく、彼らにあったコトバや教育方法を、周りの者が見いだせていない、いなかっただけであると思います。

 例えばチンパンジー。 今では彼らは、身振り語を使用する能力があると認められていますが、研究が始まったころは、言語能力がないとされていました。(1959年 米国 ヘイズ夫妻によるヴィッキィ)

 翻って私たちは、私たち自身のこと、生命の『ことを語るコトバ』に出会い、本当に身につけているでしょうか? 「分けるコトバ」で日常会話は出来ていても、「結ぶコトバ」はまだ身につけている途上ではないか、と私は思います。「ことコトバ」「結ぶコトバ」の発達には、身・心理学(地球生命史)と止観瞑想が不可欠と思っています。

 

NPO熊野みんなの家では、止観瞑想会と「ことコトバ」「結ぶコトバ」勉強会を、毎日行っています。 只管打座。