生聞一切 世界内存在

WHO憲章の「健康」の定義を読んで、二人の若い学生が神や霊が存在するか、しないかで 論争をしていました。

存在すると主張する学生は、自分のイメージする神や霊が存在すると主張し、それに反対する学生もまた、自分がイメージする神や霊が存在しないと主張します。 あるいは、本人たちは、自分を離れて、客観的な存在としての神や霊について議論しているつもりになっていました。
そこへ、先輩の学生がアドバイスしました。 「君たちは止観瞑想をしたことがあるか」と。

原始仏典には、一切という経がある。
南伝 相応部経典35-23 一切 漢訳 雑阿含経 13-17 生聞一切
< 世尊は、つぎのように説かれた。
「比丘達よ、私はいまなんじらのために『一切』なるものを説こう。よく聞くがよい。比丘たちよ、何をか『一切』というのであろうか。眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身体と感触、意と法、比丘たちよ、これを『一切』というのである。」 >

君らは共に、止観瞑想を知らない。止観瞑想し、存在と認知について、観の瞑想を行えば、神であれ、霊であれ、一切は、色(その人を取り巻く環境からの刺激)と受(それをうけとめること)から成り立っていることをつぶさに見るだろう。私にとっての世界とは、外界からの刺激を受け、私自身の感覚と意識が作り出したものである。

神や霊の存在を否定する君よ、君が否定しているのは、神や霊が存在すると主張している彼がイメージしている神や霊ではなく、君自身がイメージする神や霊を否定している。
神や霊の存在を主張する君よ。 君は何の目的があって、存在を主張するのか? 君は彼をどうしたいのか?

私は、神や霊が存在しないと主張する彼に、私と同じ考えに立たせたいのです。
私もそうです。 神や霊が存在すると主張する彼を、妄信から目覚めさせたいのです。

君たち、こういうのを仏教では「戯論(けろん・プラパンチャ)」というのですよ。 話し合いは、一緒になること、同じになることを求めるためにするのではなく、お互いに違うということを知るために始めるのですよ。

 では先輩は、神は存在すると思うのですか、存在しないと思うのですか?

 「神」というコトバは「神」ではなく、「霊」というコトバも「霊」ではありません。
 名づけられたものは、この世界の一部となり、私が認識する対象物になってしまいますよ。
 神や霊は対象物ではありません。 汎神論においても、アニミズムにおいても、対象物と捉えると、迷います。
 だから、旧約聖書出エジプト記の中で、モーゼに名前を問われた神は、「私はある、私はあるというものである」と答えたのでしょう。
 魚は、水なしでは生きてはいけません。しかし、魚には、水というコトバはないでしょう。
 魚は水の中に生きています。 そのように、私達は、「神の中に生きているのでしょうね。」
「神」というコトバを定義することも、「神は存在するかしないか。」という文をめぐって論争するのも、不毛です。
 臨在を体験されますように。  それには、善人であること。 神を感じ、神の中にいるヒトは論争しません。

エスササイズ あなたの周りを見渡して、生命の宿るもの、宿らないもに分けてみてください。同じように、精神の宿るもの、宿らないもの、気の宿るもの、宿らないものに分けてみてください。そして、隣人と話し合いましょう。 仏教では、仏を、応身仏、報身仏、法身仏に分けることがあります。応身仏は見る仏、報身仏は感じる仏、法身仏は私がその中にいます。