現成公案 只管打座


 紀伊半島の南、那智勝浦町那智(妙法)山の山麓にある我が家の周りは、本格的な落葉のシーズンとなりました。朝、竹箒で玄関と家の前の道路を掃きます。
 
 禅寺の小僧さん宜しく、落ち葉掃きという作務は、一種の止観瞑想となります。


 「片づける」という作務の目的・喜びは、その行為の結果「片付く」ことにだけあるのではなく、片付ける行為「そのもの」にもあります。 同じような動作の繰り返しでありながら、一つ一つの動作は、一回きりの動作です。
急いで片付けても、ゆっくり片付けても、片付くことは同じですが、急ぐと、「片づける」という行為が、単に「手段」となりがちで、喜びや気づきがありません。
 動詞で「急ぐ」という漢字は、形容詞になると「忙しい」、心を亡くす(心ここに生らず)と書きます。


 同じく「食べること」の喜びは、その行為の結果、完食して褒められたり、栄養を得ることにだけあるのではなく、食べる行為、そのものにもあります。 それには、ゆっくり時間をかけようとするよりは、時間や満腹感、次の予定に捉われないこと、咀嚼や嚥下に敏感・マインドフルネスになることが大切です。


 これは、掃除や食事、呼吸だけでなく、日常の動作一つ一つに言えることだと思います。


「歩く」行為にしても、日常生活の多くの「歩く」は、何か目標に向かって「手段」としての「歩く」でしょう。
様々な動物の中で、直立二足歩行できるのはヒトだけである、歩くこととコトバを使うこととは深い関わりがある、歩く動作にも環境文化の規制がある、歩くことはほぼ奇跡である、歩くことは色即是空である、ありがたい、と自覚しながら歩くことはまれです。


 歩く本人にしてみれば、目標に近づいた、と思うかもしれませんが、空から見れば、単に地球平面上の位置が変わっただけです。 場所(空間)にしても、時間にしても、遠い近い、過去現在未来と一方向的にのみとらえてしまうと、今ここが、単なる「過程」「手段」になってしまい、「今ここを生きていない」「こころここに生(あ)らず」「ちがいがわからない」状態になりがちです。


 止観瞑想にしても、「悟る」に至るために瞑想を始めると、その行為が単なる手段となってしまい、悟ることからはむしろ遠ざかります。


 今、こうして「書くこと」にしても、何かの目的の手段としてだけ書いてしまえば、危うくなります。


「手段」が一切だめということではなく、気を付けて「手段」だけにはしないようにしようということです。


「未完了でありつつ、完了」という古代ヘブライ語のような二重性。 只管打坐。現成公案
矛盾を抱えたままの、永遠。