我昔所造諸悪業 12月5日 大接心

以前書いた内容と重複するが、以下も書きかけの原稿です。


仏教でいうところの四大苦のひとつが「死苦」です。死を瞑想することも大切でしょう。

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あなたは、自分がこの世を去る時の場面を想像したことがありますか?
しばらくお付き合いください。そして少しの間、想像してみてください。
 
あなたは何歳になっているでしょう?
そこは、自宅でしょうか、病院でしょうか、車のなかでしょうか、屋外でしょうか?
天気はどうでしょう、晴れていますか、雨が降っていますか?
暖かい日でしょうか、寒い日でしょうか?
朝でしょうか、昼間でしょうか、夜中でしょうか?
そばに誰がいますか、恋人、見知らぬ人、それとも誰もいない?
近くに花が咲いているでしょうか? 鳥が鳴いているでしょうか?
香りはどうでしょう? どんな風が吹いていますか?
痛みはどうでしょう? 痛みが伴っていますか? からだは思うように動きますか?
感情はどうでしょう? 怖い? 寂しい? それとも安心、満足
誰かに何か言いたいですか? でもあなたはもう誰かと話すこともありません。
何かやり残したことがありますか? しかし、あなたはもう関わることができません。
 
その日が、どのような日になるかはわからないし、自分の思うようになるとは限りません。
遠い先のことではなく、予定などしていなかった日に、突然やってくるかもしれません。
その日はいつか必ずやってきます。それでいて、なかなか想像できなかったりします。

多くの人が持っているであろう漠然とした人生の目標、願いとして、
「死ぬとき、苦しまずにいたい。」「死ぬとき、後悔しないでいたい」あるいは、
「死ぬとき、幸せな状態で死にたい」「死ぬとき、満足して死にたい」
という目標があると思います。
 
この願いは、深い願いでありながら、普段は漠然としていて、あまり自覚されていないように思います。その目標を達成するための手段、その手段を達成するためのその手前の手段、その手段を達成するための更なる手前の手段と階層が下がっていくうちに、手段が目的になってしまい、元々の願いが見えなくなってしまったりします。
 
どのような手段を選ぼうとも、最後の日が、自分の理想通りになる保証はありません。
 
しかし、たとえどのような日になるとしても、止観瞑想を学んでいれば、例え 苦しみや痛みがあったとしても 苦しみや痛みを「観る」ことができます。観ることで、それらが縁起するもの、実体がなく空であると知ることができます。
 
では、その最期の場面で、止観瞑想ができるだろうかという不安があるかもしれません。
 
すると、時空を超えて 一遍上人の声が届きます。
 
今ここで止観瞑想できないものが、その時にできますか?
今ここで、「ありがとう」と言えないものが、その時「ありがとう」と言えますか
今ここで、「ごめんなさい」と言えないものが、その時「ごめんなさい」と言えますか
 
だから、「いまこのとき」が「そのとき」でもあります。

今の平穏な状況の中で、常に何かを追い求めていて、「今ここで実際起こっていること」を丁寧に味わえていない人が、あるいは欲張りで、腹を立てやすく、無知な人が、人生の最期の場面になったら、心根がやさしくなり、寛容になり、その場面を丁寧に味わうことができると思いますか?
今、あるいは最近の、あなたの気持は如何ですか?
不安や不満足はありませんか? いらいらしたり、怒ったりしてはいませんか?
 
今一度、あなたが今触れている床を丁寧に味わってみてください。自分の呼吸を感じてみてください。もし床が無かったら、あなたは自分自身を何で感じることができるのでしょうか?もし海や森が創りだした空気が無かったら、あなたは自分自身を何で感じるのでしょう?もし、音が無かったら、風が無かったら、香りが無かったら、光が無かったら、あるいは皮膚が無かったら、筋肉が無かったら、あなたはあなた自身を何で感じるのでしょう?もし、他の人がいなかったら、あなたはあなた自身をどうやって感じることができるでしょうか。

 皮膚によってあなたは包まれ、守られています。でも皮膚は、固い城壁ではありません。
外の世界を感じ、繋がるための皮膚です。今、あなたの皮膚や筋肉が感じていることを、丁寧に味わってみてください。