今の若い人は、せんばこき(千把扱き)とか足踏み式脱穀機といっても、何のことかわからないかもしれません。日本史の教科書で見たという人ならいるかもしれません。せんばこきは、江戸時代に発明された農機具です。せんばこきが発明されたおかげで、作業の効率が上がりました。その一方で、それまでその作業を手作業で行っていた人々の仕事を奪ってしまいました。
「時代の変化、技術の発達で作業効率や生産高が上がる一方で、ある人々は仕事を失ってしまう」というできごとは、これまで色んな時代、色んな分野でありました。
産業革命の頃、ヨーロッパでは、洗濯業は主に女性の仕事で、洗濯女は今でいうキャリアウーマンのような存在でした。しかし洗濯業の機械化が進むと、多くの洗濯女は職を失ってしまいました。
日本では、昭和40年代までは、薪炭商を営む人が見られました。炭屋さんからガス屋さんに転業した人は少なくて、多くの炭屋さんが廃業したといわれています。
「商売を続けるには良い<炭>を売る」という発想から、「良い<燃料>」を売るという発想の転換、レベルアップが必要だったといえます。
アメリカの航空業界も鉄道業界から移った企業は少ないといわれています。ある鉄道会社のライバルは、別の鉄道会社ではなく、航空会社だったのです。
日本でも同じようなことがあった、と大学の教授から教えて頂きました。万年筆会社は、同業の万年筆会社がライバルと思って努力していたが、実は真のライバルは、ワープロやパソコンであったというのです。
週刊マンガの売れ行きや喫茶店の利用者数は、携帯電話の売れ行きと共に減少していったと聞きました。
歴史を振り返ると、封建領主のライバルは、他の封建領主である時代もありましたが、経済や流通の発達とともに、中間の徴税人や商人が「ライバル」となりました。
14世紀のヨーロッパでは、重装騎兵のライバルは、同じ騎兵ではなく、それまで補助的な存在とされた歩兵でした。ただし、その歩兵は、長い鉾槍を持ち、密集隊という形をとっていました。
諸行無常、万物流転ということばがあるように、時代、社会、文明そのものが変化して止みません。私達は、どのように変化していくのか、不安になり、予測し、変化に備えようとします。しかし、歴史が語るように、これまでの「変化」はその時代の真っただ中にいる人の発想を超えた変化でありました。
「ものごとの変化には法則性がある。だから予測できる。」という人もいれば
「それは法則性ではなく、冗長性であって、法則性があるように見えるだけだ。」という人もいます。
未来を予測し、それに備えることは、神様ではない人間には、無駄な努力なのでしょうか。
私は、変化しないということはないと思っています。
しかし、その変化の予測は、余り変数が多くて予測しかねるように思います。
ただ、どのような変化になろうとも、一方で変わらぬ心構え、生き方があると仮説することができるとも思っています。
ただ、それを見出すためには、じっくりを腰を据え、丁寧に観察することと柔軟な発想が必要と思っています。