蝋八大接心 ろうはつおおぜっしん

蝋八大接心 ろうはつおおぜっしん

今日は、12月3日 禅道場では、ろうはつおおぜっしん 蝋八大接心 の最中。
禅僧のように、坐禅を組んだまま睡眠は3時間程度、あとは坐禅という暮らしはできないが、できる範囲内で座禅を組み、仏法僧を思っています。
 
以下は、書きかけ中の原稿。
 

10代の頃、旅行中、禅寺に泊めて頂いたことがあります。その時、住職さんに問われました。「仏教が何を説いているか知っていますか? 高校を卒業したのならば、倫理社会の授業で習ったはずだよ」と。皆さん如何ですか、仏教は何を説いていますか?

仏教では、人間に苦しみをもたらすものとして、「三毒」があるといいます。
 「三毒」とは、貪・瞋・痴です。

「貪」とは貪欲のことを言います。人間には様々な欲求、欲望があります。欲求、欲望が満たされた時、私達は快感を得、満足します。不快なことは避け、快感が得られることを求め続けるというのは、人間や動物の自然な姿かもしれません。自然な姿であるにしても、それは苦しみをもたらします。
 仏教に「四法印」があります。四法印とは仏教の根本的な教えを四つの言葉で表したものです。すなわち、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」が三法印で、これに「一切皆苦」を加えると四法印になります。

 苦あれば楽ありといいますが、仏教では、人生はたとえ楽や快を得られるときがあるとしても、人生そのものが苦だというのです。このことは、人間が快楽を感じることを否定したり、禁止しているということではありません。しかし、ひとたび楽や快を感じると、私達は、それが引き続くことを願ったり、再び味わえることを願ったりします。欲望が生まれます。快楽を得ることが目標になったりします。「私の快楽」を得るために、他の人をそのための道具や手段にしてしまったり、また自分自身の今ここを、手段や道具にしてしまい、今ここに生き、味わうことを忘れてしまったりします。「ねばならない」と多くのことを決めつけ、自分で自分を、そして他者を縛りつけたりします。いわゆる「疎外」が生まれます。

 今ここを手段にしてしまっている身近な例として、日々の飲食があげられます。あなたの直近の飲食の様子を思い出して下さい。習慣で飲食しませんでしたか? 急いで、お腹を満たすためにだけ飲食しませんでしたか? あるいは、健康のためと言って、咀嚼ばかりに集中していませんでしたか? 十分に、トータルに、食事を味わいましたか?

あるいは、今は楽や快であっても、その結果、苦や不快が確実に予想される場合でも、その欲望を満たそうとしたりして、結局苦しみを生んだりします。(例えば、お酒、甘いもの、ギャンブル等)これが貪です。

 「瞋」とは怒ることです。怒ることが苦しみをもたらすことは言うまでもありません。正義の怒りならいいのでしょうか? 苦しみを生まないでしょうか? 私達は「私の思い通り」にならないことに出くわすと怒ったりします。理不尽な出来事に対しても(自分の理想通りではないと)怒りを感じたり表現したりします。しかし、怒りがそれを解決するでしょうか? 一時的、表面的な「支配」や「抑制」は可能でしょうが、真の解決には結びつかないでしょう。
 「怒りに怒りを以ってすれば、怒りは尽きることがない」と法句経にありますが、私はしばしば「怒りに怒りを以って」対応します。そして苦しみます。

 「一切皆苦」と仏教はいい、その四苦八苦の六番目の苦が、「怨憎会苦」です。
 
 ここでは、怒り、瞋、怨憎は苦しみをもたらすことを確認し、ではどうやってその苦しみを解決するかは、項を改めて後で考えましょう。

(信心銘という経典に『六塵(ろくじん)悪(にく)まざれば、還(かえ)って正覚に同じ 智者は無為(むい)なり、愚人は自縛す』と述べられています。)

 「痴」とは、無知のことを言います。無知とは何に対する無知でしょうか? 「一切の自性が空であること」への無知を言います。

 三法印は、諸行無常諸法無我涅槃寂静であると説明しました。宇宙の始まり以来、本質的に不滅で変わらない存在、「実体として独自に存在するもの=自性」があるでしょうか?
 虹は、誰の目にも見えます。夢や幻想ではありません。しかし、虹という実体が独立して存在しているでしょうか? 虹という現象が、現象しているだけです。
 同じく、色々な現象は確かに存在していますが、永遠不滅の実体が存在するわけではありません。このことを「諸法無我」「縁起」「空」と言います。「私」も、「愛」も、「夫や妻も恋人」も、「坂本竜馬」も、「快楽」や「苦」も、「敵」も「味方」、「生」も「死」も、「善」「悪」も、「時間」「歴史」「法則」も現象としては存在しますが、永遠不滅の存在ではありません。
 
 私達の手の働きは、足とは違う働きがあります。もちろん顔やお腹の働きとも違っています。しかし、手という部分としての実体、足という部分としての実体、顔という部分としての実体、内臓という部分としての実体が集まって、「からだ全体」ができているわけではありません。先ず分けることでは機能が果たせない全体のからだがあって、それに手、足、顔、お腹などという名前を付けているだけです。同じことが、顔の目、鼻、口、耳のついても言えます。部分に仮につけた名前なのに、私達は「目」「鼻」「口」「脳」「神経」「意識」「魂」という言葉を使っているうちに、それらが部分として実体として独立して存在しているかのように錯覚し始めます。

 いつも使っている簡単なことばほど、定義が難しいです。「目」を定義してみましょう。
広辞苑には、「物を見る働きをする所」とあります。この定義だと、目がからだの他の部分から独立して、ものを見ているように思えてしまいます。
 インターネット上にある辞書には、「光を受容する感覚器である」「光線・色などを感受して脳に送る感覚器官」と載っています。目という感覚器官だけでは、私達は物を見ることはできません。
「私」「あなた」「彼」「日本人」「中国人」「大地」「樹木」「海」「空」「地球」なども同じことです。どれも部分として独自に存在することはできません。しかし、「人は一人で生まれ、独りで死んで行くのだ」と言ったりします。
 確かに現象として、人が生まれ、人がなくなりますが、実体として人が生まれたことはなく、亡くなったことはありません。
 
 さて、今ここに戻ってきましょう。
 
 今、苦しさを感じているとしたら、それは、誰のせいでもなく、あなた自身が、三毒(貪・瞋・痴)を創りだしているからです。


< 菩提心のことなど >
 
 止観瞑想で自分自身を見つめ続けていると、利己的な欲望ばかりが見えてしまい、生きるのが嫌になってしまうことがあります。あるいは、瞑想練習が心地よくて、そこから抜け出て日常生活に戻るのが嫌になったりすることがあります。その状態から抜け出るために、「菩提心」という言葉を知っておくといいでしょう。意味は詳しく分からなくとも、先ずは言葉だけでも知っておきましょう。