苦の滅と空と真の自己と軽度発達障害

私達人間が生きていくうえで、様々な苦しみがあります。
虫歯になるのも苦しいし、人と意見が合わないのも苦しいし、人生に意味が見出せないのも苦しいです。
 
仏教では、様々な苦のことを、四苦八苦といったりします。
 
仏教の開祖、ゴータマ・ブッダは、止観、四念処によって、苦しみの生滅を明らかにし
人々にその苦の生滅の有様を説きました
 
ゴータマ・仏陀の説いた教えを「法」といい
それは「縁起の法」あるいは「縁生の法」といいます。
 
私達が味わう色々な苦しみも、
縁起の法に添って、生じ、そして滅するわけです。
 
ゴータマ・ブッダの滅後、大乗派の人々は、
縁起の法を「空」といいかえました
 
一方、ゴータマ・ブッダが、「自灯明自帰依 法灯明法帰依」
と語ったことを根拠にして、永遠不滅の「真の自己」がある、という人々がいます
 
元々、苦の滅を目的に、修業し、覚醒し、語ったのですから
縁起の法で苦の滅に至るのであれば、縁起の法を選べばいいし
真の自己の考えで、苦の滅に至るのであれば、真の自己を選べばいいと思っています
 
しかし、私には余計な老婆心があって、
今あることについて、真の自己を認める捉え方で救われたとしても
その真の自己というものの見方で、苦しむことになるよ、とついつい言ってしまうのです。
(そのときになっていえばいいものを)
一切皆苦で、実は今も苦なんですよ、といってしまったりします。)
 
空と無は、似て非なるものなんですが
仏教が中国を経て、日本に伝わる中で
空と無の違いが分からなくなってしまっているように思います
(なにせ、空も無も、漢字です)
 
実体が「無い」(無)と、実体があるわけでは「ない」(空)は、
おなじといえるわけでは「ない」のです
 
我が子の「軽度発達障害」を認めるか、認めないか
といった具体的なことについて、
真の自己がある、無い、あるわけではない、という捉え方に対応した捉え方の違いがあります
 
我が子には、「軽度の発達障害性がある」(名称に対応した行動がある)というのと
我が子は、「軽度の発達障害児だ」(名称に対応した実体がある)というのは、同じではありません
 
我が子は、「軽度発達障害児ではない」ということによって、「障害性」と「その対応」を見逃してしまったりします。

「〜(という属性)がある」という文と「(の実体は)〜である。〜だ。」の文は違うのです。
 
 

コーンダンニャに、貪りと汚れを離れた法を見る眼が生じた。
「およそ何であれ、生じる性質のものは滅する性質のものである」と。
サンユッタ・ニカーヤ