聖なること 俗なること

聖ということばも、俗ということばも、あるいは世俗ということばも
国語的には知っていて、これまで読み書きしてきた
 
昨日、改めて、「聖なる」こととはどういうことかと、思い至った
 
ことばの意味は、恣意的だから、
その意味内容は、人によって違ってくるだろう
 
自分の場合どちらかといえば
肯定文ではなく、否定文で、表せそうに思う
 
「心ここにあらず」ではないこと
疎外(自己も他者も)していないこと
時間を直線的にのみ捉えないこと
一分は、一時間の六十分の一ではなく
この一分にも、これまでのすべての歴史が
集約されていると感じること
気付いていること(これは肯定文)
何に気付くか
縁生 
自己という存在が、全体の中に取り込まれていること
 
実在論的な見方なら
聖なる空間とそうでない空間が、本来的に外界にあると捉えるのだろう
唯名論的な見方、構造論的な見方をするなら
諸条件の縁生により、構成されたものと捉えるだろう
 
ともかく、聖なるものごとは、世俗化がすすんでしまった
(神も仏も、僧侶も世俗化がすすんでいる)
残された聖なる空間を維持していくことも大切だが
日常を聖化していくことも大切だろう
 
例えば歌うこと
もちろん世俗的に歌う人もいる
例えば絵を描くこと
もちろんこれにも世俗的に描く事もある
イクラブ(make love)にしても、世俗的なラブと聖なるラブがあるだろう
 
そしてそこには聖密度があるとおもう