「チベットの般若心経とビパッサナ瞑想と認知心理学」 NPO熊野み

k1s2012-03-03

はじめに
 縁あって、同じ時代に同じ地球、同じ日本で生活している私達。そんな私達が、お互いに響きながら人生の様々な課題に向かい合い、共に充実した人生、創造と上達の人生を歩むことを願って、心理学理論と止観瞑想法を軸に、NPO熊野みんなの家講座を、毎月開催しています。
 
 今回は、「チベットの般若心経とビパッサナ瞑想と認知心理学」をテーマにしました。
                                    
 ビパッサナ瞑想を実習した後、認知心理学に基づいて、チベットの般若心経が人生の課題解決にどう結びついているのか解説し、話し合います。
  
○ 1.そもそも仏教は、どのような「智慧」を説いているのでしょう?
  
 日本は、仏教国だといわれています。日本人の多くは、生まれながらにして、仏教のいずれかの宗派の檀家となります。お盆という国民的行事があり、お葬式は多くが仏式で行われます。神社にお参りしたときに、神前で般若心経を唱えたりする人もいます。
   
 では、そういう日本に住んでいるあなたにお尋ねします。
「仏教とはどのような宗教ですか?」「仏教は何を説いていますか?」
   
「仏教」という漢字の成り立ちが示しているように、「仏教」は「仏陀釈尊)」が「宗なる教え」を説いて始まった宗教です。と同時に「仏陀に成る」ことを説いた宗教といえます。
 その「宗なる教え」「仏陀になる」ということの具体的な内容についてお尋ねしています。
 仏教の宗なる教えはどのような内容でしょう。
 「仏陀に成る(成仏)」とは、どういう方法で、どのような存在になることでしょう。
   
○2.仏教の教えの真髄 七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)
   
 仏教の宗派の一つに「禅宗」(臨済宗曹洞宗など)があります。禅宗の人々の間に伝わっている逸話があります。
    
< 唐の白居易は禅を好み、禅僧鳥窠道林(道林和尚)に「仏教の真髄とは何か」と問いました。
  道林和尚は、いわゆる七仏通誡偈
 諸悪莫作(しょあくまくさ) ― もろもろの悪を作すこと莫く
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) ― もろもろの善を行い
自浄其意(じじょうごい) ― 自ら其の意(こころ)を浄くす
是諸仏教(ぜしょぶつきょう) ― 是がもろもろの仏の教えなり
の前半部分をのべます。
すると、白居易は「こんなことは3歳の子供でもわかるではないか!」といいます。
ところが、道林和尚に「3歳の子供でもわかるが、80歳の老人でもできないだろう」とたしなめられ、謝った。(ウィキペディアより)>という逸話です。
    
この「七仏通誡偈」は、仏教の原始経典である「法句経」の中にも見られます(183)。
ですので、この七仏通誡偈が、仏教の基本的な教えの一つといえます。
   
○ 3.仏陀に成る 瞑想と心理学
  
「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」、「もろもろの悪を作ること莫く、あまねく善を行じ奉り、自らその意を浄くせよ、これ諸々の仏の教えなり」という教えは、三歳の子供にも分かるような内容かもしれません。
   
しかし、「諸々の悪をなさず、善いことを行おう」という教えを知るだけでなく、「実践」しようとした時、道林和尚が述べるように、それは世の中の色々な経験を経た年長者であっても難しいことです。
  
何が難しいかというと、悪をなさないのが難しいのではなく、何を以て「善悪」「正邪」なのかと判断するのが難しいと思います。
   
極端な例を挙げれば、日常生活の中で人を殺せば、殺人罪に問われますが、戦争においては英雄となります。癌などの治療において、手術するのがいいのか良くないのか、判断が難しいときがあります。
人間関係において、ある発言に関して、反論するのが適切なのか、甘受するのが適切なのか迷うことは多々あります。大麻を吸引することは、日本では違法ですが、オランダでは合法です。
古今東西一夫一妻制が唯一の婚姻制度であったわけではありません。ならば現代において、複数の人を同時に愛することは、善でしょうか悪でしょうか?
日本の一般国道の最高制限速度は、時速60?ですが、法を守ればかえって渋滞になったりします。
水俣病において、有機水銀が原因と断定される以前、水俣病が発生した地域でとれた魚の水揚げを漁協が拒否したそうです。この水揚げ拒否という行為は、善でしょうか悪でしょうか?
お金の貸し借りに「利子」が伴うことには、正邪善悪がないでしょうか?
善行を積んでいると多くの人から認められる人であっても、病気で若くして亡くなることや、天災などで突然亡くなることもあります。そのような出来事について、善悪を述べることはできません。
     
ある経典が仏教であるのかないのかの判断基準として、仏教には三法印という基準があります。
つまり、諸行無常印、諸法無我印、涅槃寂静印の三つを言います。
三法印の視点から善悪の判断を見れば、善悪概念もまた諸行無常諸法無我です。
絶対的な基準というものがあるとは言えません。
    
それは、具体的な問題について、如何に生きるべきかを、止観瞑想を実践し、ものごとに対する自分の判断過程を、ビパッサナ瞑想すれば、誰もが実感することでしょう。
しかし、私達はともすれば、自身の判断や常識、習慣としているものを不変で正当であると思いがちです。無常であるもの、一回きりであるものを、恒常や実体と捉えてしまったりします。それがもとで、隣人との争いや不適切な行動になったりします。それがもとで、自分に過重な行為を強制したりします。
   
かといって、過去を参照することや、判断基準や認知心理学でいうところの、シェーマ、フレーム、スクリプト等を一切なくしてしまっては、個人生活も社会生活も成り立ちません。
   
だからこそ、人と人が共に響きあって生きていく「智慧」が大切になります。
   
仏教には仏教の智慧の体系がありました。しかし、2500年の時の流れと伝播を経て、その智慧は現代人には解りづらくなっています。学問的な経典研究は進んでいても、六波羅蜜(布施、自戒、忍辱、精進、禅定、智慧)の実践が伴っていなかったり、日常生活にどのように応用すればいいのか理解が難しかったりします。
                                    
そこで、仏教の原点である止観瞑想(禅定と智慧)を先ず実践し、現代の心理学の理論や用語を使って、その智慧に迫ろうと思っています。
  
○4.縁起の法 因果性と相依性
    
仏教の真髄、基本的な教えは何かと考えたとき、「七仏通誡偈」が挙げられます。あるいは、「三法印四法印)」を挙げる人もいるでしょう。「四聖諦八正道」を挙げる人もいるでしょう。更には、「縁起の法」を挙げる人もいるでしょう。
   
宗教家や哲学者、心理学者でなくとも、日常の中で私達は、同じ物事、事象について、色々な見方が成り立つことを味わいます。
そこで、私達は、客観的な共通のものの見方を得るための一つの方法として、人間の主観・意識を排して事象を捉える、因果を分析するという方法を選びました。
この世界を、人間と人間を除外した客観世界、私と私を除外した客観世界、精神と物質的な客観世界に分け、人間や私、意識を除外した上で、その客観世界の成り立ち・因果を考えました。そうやって生まれたのが物理科学です。
   
しかし、私達は、物理的な客観世界にお客様のように生きている訳ではありません。生身の体、自分の意識を通して世界の中に組み込まれ、環境に働きかけ、同時に働きかけられながら、相依的、創造的、協働的、創発的に生きているのです。
   
客観的な物理世界のものごとの成り立ちを分析したとき、そこにはいろいろな条件が集まって一つの事象が生起していると説明できるでしょう。色々な条件が集まって一つの事象が起こることを縁起の法といえます。客観物理世界には、客観物理世界の縁起と因果があるでしょう。
   
人間の意識や行動、その人間が集まった社会の変化について、その生起を観察したとき、そこには、物理世界と私達人間の意識の接触という縁起があって、行動や変化が生起しています。
  
物理世界と私たち人間の意識の接触、その後の行動や変化を観察し、それらの結びつきが恣意的であると自覚すること、恣意的でありながらともすれば固定的、実体的にとらえてしまうことを自覚することを、ビパッサナ瞑想といいます。そこにも縁起の法が観察されます。それは生きている世界の縁起の法です。生きている世界の出来事は、物理世界の縁起だけでは説明しきれません。
   
○5.チベットの般若心経
  
日本人が日常生活の中で一番触れる機会のあるお経、知っているお経といえば「般若心経」ではないでしょうか。数ある経典の中で、般若心経は、仏教の修行法や、その修業によって得られる智慧が濃縮して表現されています。そこで、七仏通誡偈とともに、般若心経をテキストに取り上げました。
    
○6.摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
    
 「観自在菩薩が、般若波羅蜜という深い智慧を感得する修業・瞑想を行い、その結果この世界を成り立たせている五蘊(色・受・想・行・識)が、皆<自性が空>であること、実体がないこと、をはっきり認識し、一切の苦を乗り越えた」という内容から般若心経は始まります。
     
 インターネット上を閲覧してみると、実にたくさんのHPが般若心経の語釈や学問的解説をしています。語釈や学問的解釈は、それぞれそのHPや学問書を参考になさってください。
     
 私達の講座では、なによりも「五蘊皆空」を、実際にビパッサナ瞑想をすることによって、体感しようと思います。
七仏通誡偈にある「自浄其意(じじょうごい) ― 自ら其の意(こころ)を浄くす」とは、止観瞑想を実践することにより、色(物理世界)と受(私達の感覚、快不快、判断)の結びつきが、「恣意的」なものであること、つまり「空」であることを観察し、自覚することを言うのだと思います。
    
○7.瞑想と認知心理学
   
「言語」がなければ、私達は、物事を認識することも、思考することもできません。沢山の語彙を持つことによって、私達の認識や行動は、より創造的になり、より微妙なものとなります。
同時に、言葉の使用は、本来無常であり、空であるものごとを、あたかも実体があると捉える錯覚につながったりします。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず(方丈記)」です。ですが、私達は、山田太郎とか薔薇という言葉を使うことによって、昨日の薔薇と今日の薔薇は同じように観てしまいます。10年前の山田太郎と今日の山田太郎を同じ実体に見てしまいます。
「性格」とか「無意識」という言葉を使っていると、そういうものごとが実体として存在しているかのように思い込みます。あるときある場面で当てはまった信念や対処法、理論を、それ以後も全てに当てはめて「〜であらねばならない」と固執してしまったりします。
仏教の智慧とビパッサナ瞑想と認知心理学によって、「思い込み」をはずし、人生の上達を図りましょう。
    
NPO熊野みんなの家 0735−52−1969