宿業と生きる

 「ある状況の中で、ある行為をすれば、苦しみが生まれることが予想される。しかし、わかっていながらも、その行為を選んでしまう。そして苦しむ。一体どうすればいいのだろう。」
こういったことは、よく見られることです。
例えば、甘いものを食べると、血糖値が上がるとわかっている、でも、ついお菓子を買ってきて食べてしまう。肺癌を気にしながら、何度も禁煙に失敗する、といったことです。
行為の抑制ができなくて苦しみの程度が大きくなると、「依存症」といわれたりします。アルコール依存症パチンコ依存症買い物依存症、DV、幼児虐待
 こういった例もあります。
 「バイト先に何かと口うるさい先輩がいる。いつも何か言われる。反論すると喧嘩に成るので、いわれたとおりにしている。その場は丸く収まっているが、家に帰ると、心がすっきりしない。苦しい。どうしたらいいのだろう。」
 
 あるいは逆に「ある状況の中で、ある行動をしないと苦しみが生まれる。しかしわかっていながらも、その行動を選べない。一体どうすればいいのだろう。」ということもあります。例えば、いじめはよくないと思っていても、その現場でやめようという声があげられない。そして、後で苦しむといったことなどです。 
 何度もそういった苦しみを味わっていると、そもそも、私はなぜそのような行為を選んでしまうのか、あるいは選ばなかったのかと考えたりします。
 本能、遺伝、条件反射、学習、憑依、カルマ、宿業、運命、性格、常識という思い込み、世界観や文化
 
 色んな立場の人々、心理学者、宗教者、教育者、医師、占い師、シャーマン、親など、色んな説を述べます。
 
 そんな中で、私もいま、一つの説を述べようとしています。ただ、私は私の説はオールマイティだとは思っていません。 私の個人的な体験を述べます。参考に成ると思う人は参考にしてください。
 
< 瞑想 >
 私は、いつの頃からか瞑想を実践しています。瞑想という言葉を知らずに、瞑想していたのは中学生の頃だったと思います。その当時、夜中に、「私は何のためにこの世に存在しているのか?」とか「人と人はなぜ争うのか?」「私のこの不安の正体は何なのか、どこからやってきたのか?」と考え続けていました。考え続け、朝を迎えた大抵の答えは、「わからないまま、私は生きている。私の心臓は鼓動している。」という答えでした。
 
 その後、「禅」と「ヨガ」を知り、呼吸法を知り、食養・桜沢・無双原理を知り、野口体操を知り、原始仏教を知り、四念処経を知り、太極拳を知り、チベット仏教を知り、祈りや黙想を知り、ビパッサナ瞑想を知り、ゲッセマネの祈りを知りました。

 瞑想から得た私の行為に関する説は、「縁起説」です。「私の行為は、縁起に従って生まれている。」と思っています。
 縁起という言葉を聞いて多くの人は、科学的な因果説を思い浮かべるようです。つまり、色々な原因となるものが集まって、一つの結果が生まれる、と。
 遺伝もあり、本能もあり、環境もあり、学習もありして、複合的な原因により、結果が生まれると。確かに、そういう縁起もありますが、縁起説には別な面があります。
 
 原始仏教での瞑想、チベット仏教、ビパッサナ瞑想から得られる縁起とは、対象と感覚器官の接触により、そこに名称が生まれ、快不快が生まれ、快不快をもとに、欲望・行動の選択決定が生まれる、という縁起説です。
 対象と感覚器官の接触により名称が生まれる時に、脳科学的なさらなる縁起があります。行動の選択においても、その結びつきは、本人にとっては固定的ですが、実は固定的ではありません。その分析はきりがありません。ポイントは、接触によって生まれる名称は、唯一固定されたものではない、行動の選択も唯一な固定的なものではない、ということです。
 
 具体的にいえば、先ほどのバイト先の先輩の例ですが、バイト先に出かけ、顔を合わした時に、「あ、口うるさい先輩だ」と対象に名称を付けてしまった瞬間、以後何を言われても小言に聞こえてきます。丸く収める為にと選んだ行為に「我慢」という名称を付けると、心に鬱積したものが溜まります。
 
 いまこうして書いている文章に使われている「単語」ひとつひとつのことを考える時、その単語は、書こうとしている文章や、これまで書いてきた文章がつくりだした文脈に添うように選ばれています。
 人間のたった一つの小さく見える行為も、「単語」と同じで、そこには文章や文脈に依存した意味、縁起があります。 心理学では、小さなひとつの行為を生み出す文脈のことを、ライフスタイルとかナラティブと言ったりします。
 
 適切な単語・行為だけを選び直すことで、すっきりする文章もあるでしょう。
 単語の問題ではなく、文章そのもの、文脈そのものの流れを変えた方がいい時もあるでしょう。                        
 行為を生み出す文章、その文章を生み出す文脈を変えることを、宗教的には「回心」「スピリチュアルな復活」「新生」といったりします。
 
 その為にお勧めしたいことのひとつが、先ずは自分の呼吸と姿勢を見つめ、気づくという瞑想です。呼吸に気付くようになると、縁起を瞑想することができるようになり、縁起を瞑想すると、名称と行為の発生に気付くことができるようになります。更に回心に繋がります。

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