生きるということの瞑想

「新陳代謝と生命維持」
 この世に生まれた瞬間、「死のう」と思う人はおそらくいないと思います。
 心筋や肺を活動させる筋肉はひたすら動き、血液は流れ続けています。
 なにはともあれ「生命を維持しよう」とすることが、からだ全体の基本的な姿だと思っています。

 ( もちろん、生命を維持するためには、「新陳代謝」が必要で、生まれたときの細胞がそのまま維持されるわけではありません。新しく生まれると同時に、アポトーシスとして自ら死んでいく細胞もあるでしょう。 )

 「新陳代謝」しながら、「生命を維持」していこうとするのが、生命の基本的な姿だと私は思っています。

 人生を重ねて、後に「死のう」と思った時でも、生命を維持する為に筋肉が動き、血液が流れないことには、自殺もできません。

「人は一人では生きられない」
 「人はたった一人では生きられない」ということは、明らかな人間生命の姿だと思います。
 人間は、未熟児として生まれてきます。人間はこの世に生まれてしばらく、這うことも、立つこともできません。自分で自分の生命を維持する為の活動ができません。世話をしてくれる存在があって生きていけます。
 大人とて同じことです。現代社会では、機械化が進み、分業が進み、私達は他の人々、他の地域、他の国々に依存しないと生きていけない仕組みの中で暮らしています。
 百姓という言葉は、百の仕事をする人という意味ですが、お百姓さんでも、今や遠くの国からもたらされる石油なしでは生活が成り立ちません。
 
 人は、親、隣人、他者、社会、そして自然環境があって生きていける存在です。

「世界は独立した部分の集まり以上」
 私達は普通、私達人間自身を、この世界の中で独立し、人権を持った存在として捉えます。
 そして、お互いに、また環境との間で、皮膚を境にして影響を与えあって生きていると捉えがちです。 しかし、私たちは、息をしながら、水分を取り入れたり出したりしながら、食べ物を摂取し、排泄しながら、言葉をやり取りしながら生きていきます。皮膚がかりそめの境界であったりしますが、そこを境に独立しているわけではありません。

等価交換「目には目を 歯には歯を」は いつも世界を丸く収めるか
 人と人が暮らすところには、それぞれの想い・欲求・欲望の対立は避けられなかったりします。それぞれの想い・欲求・欲望が、思い通りに成る訳ではありません。そこで、人が暮らす場所には、ルール、道徳、規範、規律、法律、倫理などが生まれます。しかし、これらはそれぞれの思惑を持った人間が作ったあくまでかりそめのものです。
  必ずしも、法律や道徳に則って解決されるわけではありません。唯一絶対の正義がある訳でもありません。そこで、力づくの解決や戦争になったりします。
 そういった規範のひとつに、「目には目を、歯には歯を」「やられたらやりかえせ」というものがあります。商業や雇用、現世利益の世界では、多くの人が採用しようと思うルールかもしれませんが、必ずしもいつもそれが、生命の維持、平安、充実ということに結びつくとは限りません。 幼子に乳を与える母は、等価交換を願っているでしょうか?
 
 等価交換という考え方には、独立した個人、という捉え方が、前提となっているように思います。労働に対する報酬とかにおいては、望ましいことかもしれませんが、いつもそうであるとは限りません。そして、何をもって等価と判断するかもまちまちです。
 
 「正直者はあほをみる」という言葉がありますが、真の正直者は、「あほで結構」というかもしれません。
 
 「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ
 (神よ、神よ、なぜわたしを見捨てるのか)
 この部分を以って、吉本隆明氏は
 イエスは結局自分を信じ切れなかったと語ったそうですが、
 私はそう思いません。
 と言って信じたのかというとそうでもないとおもいます。
 最期の最後まで、私達人間の弱さと救いを見せてくれたと思っています。