捨身 仏教と聖書

 ある場面では、身を捨てること以上に、自分の考え、好き嫌いを捨てる方が難しいかもしれない。
好きなことの為に、身を捨てることができても、嫌いなことの為に、身を捨てられるかどうか?
 
 
 人権ということを考えた時、私たちは私達人間一人一人が、独立した一個の人間として捉えたりします。
 そのことを以って、あらゆる場面において、人間が一個の独立した人間であると、考えたりします。
 
 「かけがえのない存在である」ということと、「一個の独立した存在である」ということは同じではないのに、「かけがえのない存在つまりそれは独立した存在」と捉えてしまったりします。
 
 「人間は独立した一個の存在ではない」ということを、瞑想なしにどうやって実感できるでしょう。
 
 中沢新一著「対称性人類学」の中にこういう記述があります。165頁
 
 < 仏教の考えでは、自己というものは実在していません。 それは無限の広がりを持つ出来事の連鎖(縁起)のささやかな結節点に、束の間のあいだ生じてくる「結び目」のようなものにほかなりません。 それは、結んではほぐれ、ほぐれてはまた結ぶ、際限もない過程の中にできた束の間の「結び目」にすぎないのですが、私たちはそれを永続する実在として錯覚して、そこからさまざまな錯覚や幻想を紡ぎだすことになります。自己というものが実在しないのなら、とうぜん他者や対象というものも実在しません。すべては広大な縁起の相互作用のうちに発生する泡の効果にほかなりません。それなのに、自己は実在すると錯覚して、それに執着する人間は、また自己の外にあるものを欲望の対象として執着します。 >
 
 でもこういったことを、真摯な瞑想なしに実感するのは難しいように思います。

 
 人間が採集経済で生きていた時に、その生活を維持するために使っていた道具と、現代人が今その生活を維持するために使用している道具と、どっちが多いでしょうか?
 圧倒的に、現在の分業社会の方が多いでしょう。

 冷蔵庫が動く為に、電気が供給されねばなりません。供給には送電線がいります。電気を生むためには発電所が必要で、発電所を動かすにはエネルギー源がいります。石油やウランを運ばねばなりません。精製しなくてはなりません。採掘しなくてはなりません。
 
 経済生活から見れば、私達一人一人は、独立などしていません。
 
 人権という面で見れば、私たちは一個の独立した、かけがえのない人間かもしれませんが、経済生活から見れば、私たちはより細かな分業社会のひとつの歯車的な存在で、独立していなく、経済的にはかけがえのない存在でもないかもしれません。かけがえのない存在ではないからこそ、社会全体としては維持できていくのかもしれません。
 

 今日は、朝から、「捨身」ということを心に留めておきつつ、日常生活を送っています。
 
 「嫌いなことの為に身を捨てる」

 例えば、「キリストにならいて」教文館 由木康訳 40頁

 < 他人の欠点や弱点に対しては、それが何であるにせよ、努めて忍耐強く寛大であるがよい。あなたも他人が耐え忍ばねばならぬようなものを事実において多く持っているからである。 >
 41頁 < 平安のうちに他の人々と和合して生活しようとすれば、多くの事がらにおいて自分の意志を打破することを学ばねばならぬ。 >