愛することに「人間の二元論」を持ち込む躓き

k1s2013-06-11

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ 15: 12-13).
      
 「菜食家」が、もし一片の小さな肉でも食すようなことがあると、「それは菜食家にあるまじき行為」と批判(自己批判を含めて)することがあります。
           
 一方、肉を好んで食べる文化の人々が、肉以外のものを食べたとき、「それは肉食家にあるまじき行為」と批判されたとはあまり聞いたことがありません。
                        
 人間という動物は、歯の構成から推測すると、本来植物も肉も共に雑食できる動物であると思われます。
                    
「愛する」ということにおいて、「人間の二元論」を持ち込めば、菜食家の批判のような批判が生じてしまうように思います。
                   
 フロムが
「愛されることを望む(受動)より、愛すること(能動)」「愛するには修練がいること」「相手が唯一無二の存在であると知ること、その為に内面的な自由と独立が大切なこと」
と言われたことはその通りだと思います。
         
ただ、「愛とは、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。」という言葉の前で、
              
「愛すること」の対語として、「愛していない」という対語しか認めない「人間の二元論」を持ち込めば、かえって苦しみや絶望がもたらされるように思います。
             
「すべての人を愛すること」ができたら、それに越したことはありません。しかし、生身の人間において、実際生活では、憎むとまではいかなくても、どうしようも愛せないときがあるように思うのです。
             
愛せたらいいが、愛せない、その状況に耐え忍ぶという場面(仏教でいう忍辱?)があるように思うのです。
                
あるいは、すべての人間を愛するなんて、人間の力だけでは到底できないと絶望したとき、フロムやヨハネの言葉が、心に直接聞こえてくるのかもしれません。