ヘブライ語には、「持つ」「have」という言葉がない? 自動詞、中動態、形容詞世界、世界内存在

あなたは今、なにを、持って(所有して)いますか?
 からだ? お金? 家財や衣服? 思い出? 技術? 智慧
 前島誠著「ナザレ派のイエス」によると、ヘブライ語には、「持つ・have」という言葉がなくて、すべては、神のものであり、人間はそれを使わせて頂いているという感じだそうです。
 「持つ」という動詞は、他動詞です。文章の中で使うと、何らかの「(世界から分離独立した)主体」が、「対象物(名詞)」、を「持つ」。
 つまり、他動詞が表現している世界は、色々な(他からは区別され、独立した)「もの」が集まって、この世界はできている、という「要素論」「素朴実在論」の世界観です。
 ヘブライ語の世界観は、要素論の世界観ではなく、「全体論的な」世界観です。
 確かに、この世界を見渡すと、名前を付けられた色々なものが集まって成り立っているように、一見見えます。これを、哲学の世界では、「素朴実在論」といいます。
 「全体論」は、分類を否定しているのではありません。分類はしても、繋がっているとかんじます。
 例えば、一本の樹を目の前にして、眺めてみると、木には、根っこがあります。幹があります。枝があります。葉っぱがあります。花があります。葉の働きと、根の形や場所や働きは、同じではありません。
 では、根っこと葉っぱは別々、独立した主体か? と問えば、別々ではありません。一粒の種が、大地に包まれ、陽の光を浴び、水を頂き、周りと共に変化したものです。
 こういうのを、「有機全体論」といいます。(縁起、世界内存在、複雑系、無所有一体、形容詞世界)
 他から分離独立した「もの」が集まって、この世界ができているように見えてしまうひとつの理由は、私たちの「言語」のせいです。今この瞬間だけを見て、部分に分けて、それに「名前・名詞」を付けてしまうと、まるでそこに、他から分離独立した「もの・実体」があるかのように感じてしまいます。
 言語学者池上嘉彦氏が、著書「意味の世界」の中で、このように述べています。
「本来<もの>でない<属性>や<行為>を名詞として表現することは、それらを比喩的に<もの>として提示することといえる。その結果、<属性>や<行為>が他の何かと関係するのではなく、自立したものとして捉えられるのである。」「『名詞化』の持つこのような働きは『実体化』と呼ばれることがある。実体化された抽象概念はそれ自体虚構であるにもかかわらず、あたかも一つの実体であるかのように人間を動かすことがある。」
 サンスクリット語シンハラ語では、属性は属性(ダルマ)のまま表現します。敢えて日本語訳すれば、例えば、<そこに、根っこ性がある、幹性、枝性、葉っぱ性がある。> 
 嬉しいとき、日常会話では、思わず、「うわ~(感嘆符)」とか「嬉しい!(形容詞)」という言葉を発します。感覚が感じたままを、表現します。「私は今、嬉しさ(名詞)を感じている。」とか「私は今、嬉しさを持っている。」と、「名詞化」して言えなくもありませんが、なんか、「さめている感じ」がしますね。
 私たちが日常味わう様々な苦しみは、この「名詞化」「所有という言葉」と深く関わっていると思います。
 
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猫の画像のようです
 
 
 
 
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