「植物の擬人化」と「人間の擬植物化」
「植物の擬人化」と「人間の擬植物化」
今日の朝は、明治維新の頃の人々を思っていて、「人の擬植物化」を思いました。
旧体制を壊したものの、次の体制をどのようなものにするかについて、革命後壊した側の者の間で見解が違い、お互い争うことは、歴史上多くあったと思います。
フランスをモデルとするのか、イギリスをモデルとするのか、ドイツ(プロシア)をモデルとするのか、あるいはそれ以外の道か。
君主大権を残すビスマルク憲法をモデルとする伊藤博文と井上毅、イギリス型の議院内閣制の憲法をモデルとする大隈重信、財政や通貨問題で大熊とは対立していた松方正義、三岡八郎、あるいは岩倉具視。
そういった政府の人々ではなく、地租改正や新税に苦しむ農民たち。
同じ地球、同じ日本、同じ明治という時代に生きていて、見えていた世界、夢見ていた世界はそれぞれちがっていたことでしょう。
明治14年の政変で、大隈とブレーンの慶應義塾門下生は追われます。
前田正名は、全国を行脚します。
もし、自分が明治時代に生きていたなら、どのような人生、どのような師と友を選んだのだろうと思ったりします。
今この時代だって同じことです。まちおこしという思いは同じでも、その方法について全然相容れなかったりします。
そんなことを思っていて、「人間の擬植物化」という言葉が生まれました。
動物を擬人化する時、例えば猫なら、猫の頭としっぽを別々に擬人化することはないと思います。ところが、植物を擬人化する場合、根っこから幹、枝、葉っぱや花を含めて全体を擬人化する場合と、花一輪一輪、実一つ一つを独立した存在として擬人化する場合があります。
能の謡曲「定家」に見られる定家蔓の場合、やはり式子内親王の墓にまとわりついている蔓全体を擬人化していることでしょう。樹木の精といった擬人化でも、対象は一本の樹全体でしょう。アニメの世界では、一個一個の果実や野菜が擬人化されたりします。
人間の擬植物化するとき、逆のことが出来ます。
一人の人を一本の樹木や植物に擬植物化することと、一人一人を、一個の果実や花や葉っぱに見立てる擬植物化です。
後者の場合、一人一人独立しているようでいて、実はつながっているという擬植物化となるでしょう。
これは実は、要素論的な見方と有機全体論的な見方を言い換えただけのことです。
まだ読んだことはないのですが、梨木香歩著「沼地のある森を抜けて」という本がそういった見方に通じているようです。読んでみることにしました。