2010年10月24日 熊野みんなの家 発達心理学茶話会メモ

出世間 あや ということについて
 
 ヒンドゥー教の人生設定の考え方に、四住期ということがあります。
 「マヌの法典」は人生を「学生期」「家住期」「林棲期」「遊行期」の四住期に分け、それぞれの住期において守るべきことを詳細に規定しています。
 学生期は、師についてベーダを学ぶ時期です。
 家住期は、結婚して子をもうけ、仕事に励んで家に住む時期です。
 林棲期は、子を育て終え、家を出て森林に移り住み、人為のもの、文明的なるものを次第に捨て去り、自然に溶け込んでいく時期です。
 遊行期とは、更に身にある物を捨て去り、無一物になりきる時期です。死を願うことなく、生を願うこともなく、天命に委ねます。
 
 仏教も、本来は、出家して森に住み、修業することが前提でした。
 
 時代を超え、宗教の違いを超え、人間の成長発達には、心の出世間が必要のように思います。

 心の出世間とは、世俗の生活において私達は、様々な世間の約束事、常識に縛られ、追い建てられています。そのような世俗的な心からの脱出のことです。
 
 科学の世界でも、「観察の理論負荷性」という考え方があります。数学では「公理系」という考え方があります。前提とする理論や公理によって、物の見方や導かれる結論が違ってくるという考え方です。
 
 基本にある考え方は、私達は多重多層の世界に住んでいる、しかし、いつしか私達はものの一面しか見えなくなったり、一面しか生きていなくなったりするという考えです。
 
 例えば、ここに一輪の花があり、数人が取り囲んでみているとします。その花は、それぞれに同じように見えるのでしょうか、違って見えるのでしょうか? 「違いを見いだそうとすれば違いを見いだせる。変わらないものを見いだそうとすれば変わらないものを見いだせる。」ともいえますし、「違うのか同じなのか、そもそも確実に確かめる方法があるわけではない。」とも言えます。
 ユークリッド空間では、三角形の内角の和は180度であるけれど、非ユークリッド空間では、180度とは限りません。普段見慣れている地図だけが地図だけだと思ってしまうと、飛行機でカナダに向かうには、東へ東へ飛べばいいと思ってしまいます。
 
 花を見る例えでいえば、一人一人が、その場から見える見え方で世界を見ていると思います。と同時に、どこから見ても5枚の花弁は5枚です。重なり合って、4枚に見える位置があったとしても、「客観的」には、5枚です。
 個々に見える見え方があり、同時にそういった個々の見え方を抽象した共通の、「客観的な」見方が生まれます。いつしか、個々の見え方に対して、客観的な見え方が優位になったり、自らの見方をその共通の見方に合わせるようになったりします。花以外のことについても、共通の見方に合わせてみるようになったりします。それらを「客観」と呼んだり「常識」と呼んだり、「ことわり」と言ったりします。
 
 人間の発達成長とは、本来多重多層であった生命の姿に目覚め、それを生きるようになることです。
 
 さて、どうやって私達は、生命の多重性多層性に目覚め、それを生きるようになれるのでしょうか。
 
 ひとつの道は、「ことば」です。
 
 なぜなら、私達は、「ことば」によって物事を考え認識し、行動を決定しているからです。
 ことばは、写像(内言を外言化)し、創造(外言を内言化)します。
 
 本居宣長は、一、ことばには二種類ある。ただの詞とあやのある詞である。二、二種類の言語表現に対して、二種類の表現内容がある。ただの詞は「ことわり」を表し、あやのあることばは「あはれ」を表す。ただの詞では表しえないものを語るのが、あやである、と言いました。

 私は、時間にも客観的物理的な「ことわり」としての時間感覚と共に、「あやのある」時間感覚があると思っています。
 
 人間の一生の流れを、誕生、成長、老化、死とみるとすれば、それは人生のひとつの見方であって、すべてではないと思っています。
 私のイメージしている発達心理学は、多重性多層性の心理学であって、時間が一方向にのみ流れているという世間的な見方から、出世間する心理学です。
 
 時は一方向に流れていて、一方向に流れておらず
 花は華やかであるがゆえに虚しく、虚しいがゆえに華やかであったりする
 華やかさがやがて虚しくなる訳ではない
 シバは語らず踊り始める
 
 踊りもまた「ことば」であり、あやを表すものと思っています。