みどりかがやく

 現在、地球のどこかでは、国と国の紛争、政府と反政府勢力の戦闘が起きています。また平和な法治国家であるといわれている国でも、貧富の差の拡大、暴力による犯罪・殺人が起きています。

 
そういった私達人間の暴力の根源を、他の動物たちと共通する、食べ物の確保と性対象の確保の争いと説明する人がいます。生存競争、弱肉強食、あるいは適者生存は、本能であり宿命であると説明されます。

 
 飢餓で苦しむ人々の映像を見ると、食糧は不足していると思い、食べ物の確保をめぐって争いが生まれるのはしかたがないと思いがちですが、国連の発表によれば、私達人間が現在一年間に生産している食糧の総量は、全地球人口70億人分の必要な食糧量をはるかに越えています。


 ですから、食糧が足らなくて争いが生まれるという説明は、人間の場合には不十分です。

 性対象の確保をめぐって争うということについても、例えばコンゴ民主共和国に住むボノボを見ると、ボノボ集団では、性対象の確保をめぐっての争いは生まれていないようです。ですので、動物なら必ず性対象の確保をめぐって争いが生まれるということではないといえます。

 私は、人間には人間特有の暴力の根源があるように思います。

 それは、端的に言ってしまうと、「ことば」だとおもいます。
「死」という言葉から生まれた恐怖、虚無が、暴力の根源にあるように思っています。

 私達動物には、根源的に、食欲求、性欲求があるように思います。
 
 お腹が空いたら、なんとかして満たそうとします。満たされれば、それ以上食べ物を確保しようとはしないでしょう。人間以外に、将来に備えて、食べ物を蓄える動物がいるのでしょうか? 余れば保存することはあっても、将来に備えて蓄えることはないように思います。

 私達人間と人間以外の動物を分ける時、ひとつは「言葉の使用」が境となります。

 ことばの使用があればこそ、私達人間は、ここまで文明を発達させ、科学技術を発達させることが出来たのでしょう。

 ことばによって、私達は、ものごとを認識し、思考し、情報を伝え、更には未来も予測します。

 未来を予測する力で以て、自分自身の人生を予測すれば、そこにあるのは「老」と「死」ではないでしょうか。なんとか自分の老いと死を先延ばしにしようとして、自分にとって都合のいい環境を確保しようとすることが、私は人間の暴力の根源であるように思っています。
 
 そして、人間はそういった努力を重ねても、「老い」と「死」を避けることはできないことも知っているのです。

 老いと死を先延ばしにすることを人生の目標にしてしまうと、今ここは、そのための手段となります。また、周りの人々もそのための手段になりがちです。目的のために、今ここや周りの人々を手段としてしまうことを、「疎外」といいます。
 
 私は「言葉の使用」を否定しようとしているのではありません。ことばを知ってしまった以上、それを否定するのではなく、ことばの働きについてもっと知り、ことばの使い方をさらに洗練することが、ことばの弊害、ことばの限界を乗り越える道であると思っています。
 
〇ことばと時間 (ことばの時制と時間感覚)
 日本語を使って暮らしていると、時間は、過去、現代、未来へと一方向へのみ、一律に流れているように感じます。それが客観的な時間だと思っています。しかし、時間について熟考すれば、それもひとつの時間感覚であることに気が付きます。

 古代ヘブライ語の時制
 古代ヘブライ語の時制は、完了形と未完了形だと言われています。事物を離れて、客観的な時間が外にあるのではなく、それぞれの事物の中にそれぞれの時間があって、その時間が満ちた時が完了、満ちていないときが未完了となります。
 こうやって表現すれば、まるで完了形と未完了形の二つが独立してあるようにとらえがちですが、瞬間瞬間ときは完了しつつ、同時に未完了でもあるという捉え方もできます。これは、古代ヘブライ語の時制だけでなく、仏教の刹那滅という時間感覚に似ています。
 
 目の前に、照葉樹林の森が広がっています。その青々とした葉っぱを見ながら思います。この葉っぱもいつかは落葉し、土に還ります。さて、森の木々、いつがその始まりで、いつが完了なのでしょう。
 私達人間一人一人を、木々の葉っぱや花にたとえるならば、いつの日か必ず老いて、枯れていきます。しかし、木全体、森全体、いのち全体を想う時、いつが始まりで、いつが終わり、完了なのでしょう。

 完了しながら、永遠に未完了、それが生命全体の姿であるように私は思っています。

 葉っぱ一枚とか花一輪、それは突然この世に生まれたわけではなく、その一枚にも一輪にも、これまでの地球生命の歴史が宿っています。「わたし」にしても同じで、突然この世に生まれたわけではありません。地球の全歴史が宿っています。
 
 しかし、例えば自己紹介するとき、「私は、山田太郎です。昭和32年3月生まれです。」と紹介すれば、地球の全歴史とは独立して「わたし」が存在しているような感覚になります。

「わたし」という言葉を知ってしまった以上、「わたし」という言葉抜きで生きることはとても難しいように思います。しかし、その「わたし」が「わたし」という言葉をつかうことで生れている感覚であることを知ることはできます。(諸法無我

 森の木々を見ながら歩くことは、瞑想になり、学校となります。森を歩き、葉っぱを見るごとに、葉っぱはやがて落ちるけれど、いのち全体ははじまりもなく終わりもない(完了しつつ未完了である)ということを感じることができます。