「学問と疎外」 66歳から、独学ピアノを始めて 想うこと

 「仲間外れになっている」「よそよそしくされている」
という意味で使われる「疎外感」という言葉は、日常生活の中で、普通に使われる言葉だと思います。
 一方、「感」をはずした哲学的用語「疎外」を、本来の意味で、日常会話で使うことは、あまりないように思います。
 ウィキペディアには、『哲学、経済学用語としての疎外は、人間が作ったものが人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう。』と書かれています。
 
 「人間が作ったものでありながら、逆に、人間を支配するようになるもの」として、あなたは何を思い浮かべますか? 私が思いつくのは、「お金・金融利子制度」「ことば・言語」。夫婦から人類までの、大小あらゆる「社会」。
 
 「お金」は、経済活動を促進する潤滑剤です。「ことば」は、意思疎通や思考の重要な方法です。同時に、お金を巡って争いが生まれ、言葉によって、風評被害や思い込みが生まれます。一緒にいたいという思いから夫婦となりながら、いつしか、夫婦だからといって、お互いを縛りあうようになったりします。
 
 ヒトは、ひとりでは暮らせません。社会があり、社会に属することで、生きていけます。と同時に、小さい社会、例えば夫婦であろうと、大きな社会、例えば国家であろう、「社会」というものは、人間が作ったものでありながら、うかうか暮らしていると、人間を支配するもの、疎外しようとするものである、と私は思っています。いつの時代も、これから先の未来においても。でもそれは、悲観論ではありません。
 
 疎外のない理想的な完成された社会が、いつかやってくるのではなく、疎外しようとする社会の中にあっても、自分は、他人を、自分自身を疎外しようとしていないか、と自分に問いかけ、「味わいある場」「響きあう場」をあらしめることは、できる、と思っています。それが「学問」「弁道」という言葉の意味だと。学び、問うこと。「問うこと」を学ぶこと。一生、問い続けること。
 
 疎外を、私なりの言い方をすれば、「今ここを、誰かを、自分自身を、欲望達成の、手段のみにしてしまうこと」だと、思っています。大義名分によって、今ここを疎かにすること。
 
 「時間」もまた、人間の作ったものでありながら、逆に人間を支配しようとします。人間を離れて、客観的に「時間」がある、という人もいるかもしれません。それとて、人間の作りだした言葉によって、作られた共同の意識、約束事です。例えば、20歳になった途端に、人間のからだにアルコールの耐性が生まれるのでしょうか?65歳になったら、その日から、「老人」になるのでしょうか?
 
 猫と一緒に暮らしていて、猫には「老い」という言葉がないことに思い至りました。人間の側から見れば、ヒトもネコも、歳をとり、老いていきます。それは、言葉で過去・若い頃を覚えていて、それと今を比較するから、「老い」が生まれます。ヒトにしても、ネコにしても、疎外なく生きているとき、「老い」はありません。
 「時間」や「老い」がない、といっているのではありません。社会が作った時間・老いの中にいながら、時間・老いのない生き方も、二重に出来ることを言っています。 一緒に、「音楽」を味わいましょう。
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