浅田次郎氏作品「おもかげ」読書会 案内 熊野、妙法山中
長年の、浅田次郎氏のファンではありますが、「おもかげ」は、読もうと思って読んだ本ではありません。図書館で、あと一冊借りられるから、と選んだ本でした。でも、目が潤みました。
主人公は、昭和26年12月生まれ、と思われる人。親に捨てられ、養護施設で育ちました。様々な縁と本人の努力により、国立大学を卒業し、商社に入り、その退職送別会の帰り、地下鉄の中で、脳出血で倒れ昏睡、救急病院に運ばれることから話は始まります。
親無くして、子どもは生まれません。ヒトの一生は、親の有る無しに関わらず、影響を多大に受けます。親本人だけでなく、血縁・親類、家風・家柄、地縁、時代風潮といった所縁・属性。
私自身は、昭和29年生まれ、「不条理」という言葉が刻まれた親子関係でした。親は、当時少数派の恋愛結婚、しかし夫婦喧嘩と暴力の絶えぬ家で、私と姉二人は、何度か家出しました。親だけでなく、親の取り巻きにも、心身傷つけられました。大人になったら、この不条理を、文章にしようと誓い合いました。(でも、主人公には、出ていく「家」、頼る親類そのものがありません。)
もの心ついた頃から、「苦しみは如何にして生まれ、なくなるのか?」が、人生のテーマになりました。主人公とは逆で、通常的な道を歩くことを拒み、哲学、論理学、宗教、心理学、言語学、社会学、体育学、生物学などの本を読み漁りました。リュックを背負い、ヒトと場を訪ねました。その過程の中で、二度の臨死体験があり、両親も、「不条理」を生きて来たのだと思い至りました。
諸法無我 私たちの苦しみと、私たちが使う「言語」には、深い深い関りがあると思っています。
特に「私」ということば。「私」を主語にする、文章構文。「過去・現在・未来」という時制。
「私」という現象(宮沢賢治)、属性・所縁の集まり。名前、からだ、親子関係、血縁・地縁、体験、記憶、推論、信念、学歴、地位、交友関係、母語、常識、夢・・・。しかし、いつしか、「現象」ではなく、「主体・実体」があると思い込む(われ思う、ゆえにわれあり)。「主体」と「環境・他の主体」は、対立する。時間は均一に一方向にのみ流れていると思い込む。やがて訪れる「死」。
コトバという現象の働きを知り、ことば遣いに気を付ける、そこに諸々の苦しみの解決の糸口があると観じています。
私という波が、「世俗」から離れていく時、この作品のように「創造の走馬灯」は、巡ります。私の場合はそうでした。
♪♬ 泣きなさい 笑いなさい いつの日か 何時ノ日モ 花を咲かそうよ ♬ (^^♪
一応、9月26日午後2時より 読書会を予定しています。時節柄、電話予約をお願いします。