苦しみの瞑想

苦しみの瞑想(ゲッセマネ

「嗚呼、父よ。汝に於いては、凡ての事能わざるなしー若し適わば此時を去らしめ給え−此杯を我より離ちたまえーされど我が心のままを為さんとにはあらず、聖旨に任せ給えー
(大石誠之助小伝より)」

 誰しも、<苦しみ><不快><不幸><不条理>を自ら望むものはいないと思います。
 
 理想や平和や平安、正義、調和を実現させたいと望むでしょう。
 
 しかし、仏教で四苦八苦というように、私達人間の人生には、しばしば望まないのにやってくる苦しみ、不条理があります。
 
 世間という枠の中で、分業し、交換しながら生きていくこと、老いること、病うこと、死ぬこと、それらを避けることはできません。 全てが思い通りになる訳ではありません。 それを「苦しみ」といいます。そして願います。
 
<此の苦杯を我より離ちたまえ>
 
 世の中に向かって、自分以外の人間に向かって、自分自身に向かって、良くしようと働きかけるのですが、凡てが願いどうり、思惑どおりになる訳ではありません。 自分自身のからだであっても、必ず老いていきますし、病になりますし、やがて死んでしまいます。
 
 夫婦であろうと、親子であろうと、全てを分かりあえる訳ではありません。
 
 嵐や地震は望まないのにやってきます。
 ユートピア思想は昔からあるのに、現実の世界は、濁流のようです。

 キリストが十字架に架けられた時、その左右で、二人の盗賊も処刑されます。右側のものは、キリストを嘲笑します。左側の盗賊は、それを戒めます。そしてキリストに云います。「汝の王国に至る時、我を思いおこせよ。」 キリストは述べます。「今日、おまえは我と共にわが王国に至る。」 復活を見なくとも、十字架の上にいても、救いはあります。
 
「不幸」という言葉は、「幸福」という言葉とセットになっています。「幸福」という言葉があるから、幸福でない「不幸せ」という言葉が生まれます。
 
「幸福」や「現世利益」を求めることをやめた時、「不幸せ」も同時に消えていきます。

臨死体験」は、求めることをやめる事を味わういいチャンスです。
 
それで臨死体験者は、しばしばその後人生態度が変わったりします。
 
死や苦しみに臨んで、キリストでさえ、「苦杯を離ち給え」と望んだのです。
そして、望んだうえで、改めて、そのことを諦めます。
 
すると、小さきままで、弱きままで、貧しきままで、世界は変わります。
 
とはいえ、また、私達はともすれば「苦杯を我より離ち給え」と望んだりします。 

ゆえに、日々苦しみの瞑想や「南無阿弥陀仏」と称名することが大切になってきます。