時間の瞑想

 「哲学」は、「存在論」と「認識論」とでできています。

存在論」は「何がどのように存在するか」あるいは「この世界の究極の存在とは何か」を考える学です。「認識論」とは「どのようにして、その究極の存在を知ることができるか」を考える学といえます。

存在論や認識論は、私達の暮らしとどのような関わりがあるでしょう。

 若い人々は、よく「神は存在するのか?」と議論したりします。

 その時、そもそも「存在するとはどういうことなのか」を問うのが存在論で、「存在する」とかあるいは「存在しない」と断定するのは、どのような根拠でそう断定できるのかを考えるのが「認識論」でしょう。
 でも、神が存在するのかしないかについての議論は、大抵は不毛な議論だと思っています。
 
 また、若い人々は、「歴史変化には法則性がある」「法則性などない」と議論したりします。そのとき、やはり如何にして私達はその法則性を見出し認識できるのかを問うのが「認識論」でしょう。
 これとて、お互いに議論し合うことよりも、自分自身に問うことが大切と思っています。
 
 私が「不毛な議論」と感じるのは、そこに「認識論」が欠けていたりする時です。
 

< 「完全な世界」「真理」「正義」がまずあって、その完全な世界に対して、私達人間は不完全な認識をするのだ >そして、 <やがて、より真理に近い認識に至るのだ>と捉える人もいます。 それもまた、認識の捉え方のひとつ(認識の認識)だと思っています。
 
 人間の存在、人間の認識を超えた「理の世界」があると、私は思っていますが、生きている人間は、確かにその「理の世界を基礎」として、人間自身が創り上げた「芸術の世界」に住んでいる、と思っています。
 
 新幹線で大阪から東京まで乗ったとします。「理の世界」で見れば、乗客は皆同じ時間が経過しています。「芸術の世界」で見れば、味わった時間は人それぞれです。
 
 理の世界の中では、人間はやがて必ず死ぬことでしょう。肉体は様々な元素に崩壊していくことでしょう。しかし、芸術の世界に於いて、人は自分の創り上げた死を死ぬのだと思っています。

 科学哲学の世界に「道具主義」という概念があるようです。
 以下は、ウィキペディアからの引用です。

< 道具主義(instrumentalism)とは、科学哲学の世界で使われる言葉で、科学理論を、観察可能な現象を組織化・予測するための形式的な道具・装置であると見なす立場。観察可能な現象の背後にある観察不可能な隠れた実在の真の姿は知りえないとする。この点で科学的実在論と対立する。

道具主義においては、観察不可能な対象について語ることは形而上学の役割であると考え、科学の仕事ではないとする。つまり科学理論によって現象の説明・予測がどれだけうまくいっていても、それによって「理論が観察可能な現象の背後にある観察不可能な隠れた実在についての真なる記述になっている」とは考えない。「ただ単にうまくいっているだけだ」という風に考える。これが道具主義のひとつの特徴である。また現象を説明するためのいくつかの理論が存在する場合、理論の選択はその正しさによってではなく、現象をどれだけうまく予測・説明できるか、その有用性によって決まるとする。これは道具主義がそもそも「理論の正しさ」、つまり理論が実在を正しく記述しているかどうか、といった事は知りえないと考えているためである。 >