罪の意識と苦杯を飲むということ

○はじめに
罪という意識は、人類の歴史の中でいつごろ生まれたのでしょう。

罪という意識は、人間の暮らしの中で、どういう影響を与えてきたのでしょう。
そして今、どういう影響を与えているでしょう。

罪という意識・ことばについて、キリスト教や他の宗教との関わりの中で、考えたいと思います。

 というのは、今年3月11日に東北大震災の折、東京都知事が、これは天罰だという趣旨の発言をしました。それは、罪を犯した者への罰ということでしょう。私達の日常の暮らしというのは、そのままで罪を犯している暮らしなのでしょうか。
 
 罪について考えたいもう一つの理由は、いじめや虐待を受けている子どもたちが、理不尽。不条理な目にあいながらも、「これは元々は、私がいけないのじゃないか」という考えを持ったり、自らを傷つけ、罰してしまうことが少なからずあるからです。
 そういった、自らを罪人として捉え、罰してしまうような意識はどのようにして生まれてくるのか、そういった意識をどうすればいいのかを考えたいからです。

最初に私の想いを書いておきますが、人は生まれながらにして罪を背負っているとは私は思っていませんし、新約聖書の中で、イエス・キリストもまた、人は生まれながらにして罪を背負っているとは言わなかったと思っています。

 (罪という言葉をどう捉えるか、人それぞれ違うという一般意味論は今ここでは棚上げしておきます。)

○罪という意識の心理と誕生
 
 人間の暮らしの中で、突然の災難にであうことは、いつの時代にもあったことでしょう。
 なんであの人が、と思うこともありますが、小さな災難から、災難に出会った時の人間の心理を考えてみましょう。
 
 家族全員で家の掃除をしていました。通り道に、バケツを置いていました。お母さんがうっかりそのバケツに躓きました。お母さんは言います。「誰よ、こんな通り道にバケツ置いたのは。」お母さんは、バケツを移動しました。今度は、娘さんがバケツに躓きました。するとお母さんは言いました。「あなた、不注意ね。よく前を見て歩きなさい。」

 人は、自分の失敗は、他人のせいにすることが多く、他人の失敗はその人自身のせいにしがちである、といわれています。
 
なんであの人がそんな目にあうの、とおもうこともありますが、同時に私達は、その人にも原因があるのでは、と思ったりします。学校のいじめの問題においても、いじめられる子にはいじめられる要素があったのでは、と詳しい事情を聴く前から思ったりします。
 
 そしてまた、いじめ続けられる子や虐待を受け続ける子も、「こんな目にあうのは、自分がいけない子なんだろう」と思ってしまうことも多いようです。
 
 克服できるだろうと思う困難の前では、人は困難を克服しようとしますが、乗り越えるのが難しいと思われる困難の場合は、諦めるだけでなく、自分を責めてしまいがちです。
 
 病気になるということでは、端的にそれが出てきたりします。
 自分が病気になった場合も、他の人が病気になった場合も、先ず、それにはそうなった原因があり、その原因は、その本人にあると考えたりしないでしょうか?
 
 病気だけではありません。例えば、落ちこぼれ、という言葉があります。学校での授業からの落ちこぼれ、競争社会での競争からの落ちこぼれ、そんな時やはり、第一の原因をその人の努力や能力の事を考えるのではないでしょうか。また、落ちこぼれた本人も、落ちこぼれたのは、そもそも悪い遺伝子を背負っているから、生まれながらの罪を背負っているから、と思ったりしていないでしょうか。
 
 イエス・キリストが誕生した頃のイスラエルの民も、自分たちは救われていない人々、つまり罪人と捉えていたようです。
 この罪から逃れるには、律法を厳しく守る生活をしなければならないと捉えていたようです。
 
 当時のイスラエルは、ローマの支配を受けていました。

Traditionally the home of the Jews, the entire country was ruled by the Romans who had conquered it many years before. The Jews felt humiliated by this and were awaiting the arrival of the Messiah, one who according to their prophets would be sent by God to lead the Jews against the Romans and restore the Jews to their former glory.

こんなに長い間ローマの支配を受けるのは、自分たちに罪があると捉えていたようです。その罪から逃れるためには、厳格に律法を守ることが必要で、生活の隅々まで細かい決まりがありました。しかし、多くの貧しい人々は、律法を守る生活をするのが困難で、救われることがないとみなされていました。また、貧しい人々も、自らもそう思っていたようです。

○罪人と罪を犯すということの違い
 
 かつて、私は、聖書を読んだことがないのに、伝聞だけで、イエス・キリストは、人間は生まれながらにして罪人だと言ったのだと思っていました。そして反発していました。
 
 一体新約聖書のどこに、人間は生まれながらにして罪人であるという発言があるでしょうか。

<そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 ヨハネ  8:3 – 11>

 この内容に対しても色々な解釈が成り立つでしょうけれど、私は思います。
 彼女は罪を犯したのでしょう。しかし、罪人ではありません。
 人は、情況によって、罪を犯すことがあるでしょう。しかし、生まれながらにして、罪人であるとは誰が言えるのでしょう。

○ 罪という言葉の意味 

 一方、逃れられないように感じる苦しみの前で、自分が悪いのだ、自分に罪があるのだと思ってしまっている人がいることも確かです。



聖書でいう「罪」とは「ハマルティア」と言い、「的外れ」という意味するそうです。
 ギリシア語でハマルテーアは、<目標を外す>と表されます。つまり、私たちが生きていく上での本当の目標を見失った状態のことだそうです。


「生のイエス自身は「罪の悔い改め」をせよとは、また人は生まれながらの罪人(狭義の原罪)とは到底言ってないと考えらるのではないでしょうか。」
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/058.htm
と、todo channel氏は、HPの中で述べられています。
 
 むしろ、イエス・キリストは、私は罪人だと思い込んでいる人に、「罪はゆるされた」と言って、「あなたは罪人でないよ」と言っているように、私は、思います。

<「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」 ルカ 6:27-36>
 
 私は罪人だと思っている人に対して、あなたは罪人ではない、あるいは、あなたの罪はゆるされた、といえるのは、やはり、イエス・キリストの言葉を信じて実行する人だと思います。
 
 信仰は、科学ではないでしょう。ここでいう科学とは、論理的に思考し、予測し制御するということです。右の頬を打たれて、左の頬を差し出す。そのことの予測は立ちません。実行あるのみです。実行することによって、自ら、そのイエスの言葉のいみするところを知ることになるのだと思います。実行したとき、即、救いが実現されると思います。
 
 日々、一瞬一瞬、苦杯は差し出され続けます。
 
 戸惑い、揺れ動き、そして一呼吸おいて、飲み続けることが、私にとっての信仰です。