デジタルとアナログ digital analogue

 何も分からないままこの世に生まれてきて、生きて、生きて、少しだけわかったような気になって、実は何も分かってないまま、この世から離れていくのかもしれません。
 
 それを無明の混沌と捉えるか、安らぎの夢とするかは、それもまたわかりません。
 
 デジタルとかアナログという言葉を聞いても、実は何のことかよくわかりませんでした。
 
 「人間コミュニケーションの語用論」を読むに至って、そういう区別の必要性が、おぼろげに私にも近づいて行きました。
 
 「おはよう!」『おはよう。』「どちらまでおでかけ?」『ちょっとそこまで。』「気をつけて。」『ありがとう、いってきます。』
 
 「人間コミュニケーションの語用論」の中に、<どんなコミュニケーションも内容と関係の側面を持っている>と書かれています。
 
 「おはよう」という言葉の意味のもつ内容、と、私達は挨拶を交わす仲ですよね、という関係の確認と。 それが、デジタルとアナログ。
 
レストランで若い男女の会話。
 
男「何にする?」女「あなたの選んだものがいい、あなたが決めて」
 
さて、この男女の関係、どっちが支配的?
 
12345と?????
 
仏教でいう「苦」の語源は、「自分の思い通りにならない」ということ、
 
じゃあ、実際に苦しんでいる人が、その自覚、自分の思い通りにならなくて、苦しんでいるのだという自覚があるのかというと、苦しいという自覚はあっても、自分の思い通りにしようとしているから苦しいという自覚はなかったりする。
 
 そこで、カウンセリングなり、文章を書くなりし、何らかの文字に、デジタル化して、自覚していくことが大切と、思ってきた。
(もちろん、絵を書いたり、歌ったり、踊ったり、よりアナログ的な表現も大切と思ってきた。)
 
 有島武郎という人を知った。
 
 文学史の中でしか知らなかった人だったが、「キリストはどこにいるか?」をキーワードにしてインターネットを検索していて、有島武郎をしった。
 このような文章を書く人がいるのだ、驚いた。
 
 「ちいさき者へ・生まれ出づる悩み」新潮文庫の、略歴を読むだけで、銀河の星々や、星雲を見ているような感じになってくる。
 
 光は、粒子であり、波である。
 
 手当にも、デジタル要素とアナログ要素がある。
 触れながら、過去のデータと照らし合わせていると同時に、今ここの感じを探し出す。
 
 エゴあるところにイドあらしめよ、イドあるところにエゴあらしめよ、
 此れも、デジタルとアナログ?
 
 デジタルと同時にアナログ 陰と陽
 
 はじめにことばありき、ことばは関係とともにあった