愛と瞑想

愛と瞑想
 
○「愛のある生活、愛の無い生活、あなたはどちらを望みますか?」

 「愛のある生活と愛の無い生活ではどちらがいいですか?」
と質問されると、大抵の人は、「愛のある生活がいいに決まっている」と答えると思います。
 
 更に質問を重ね
「では、あなたは愛される愛の暮らしと、愛する愛の暮らしではどちらがいいですか?」と尋ねると、返事は微妙になってくるように思います。
 
 同じ愛のある生活と言っても、愛される愛の暮らしは、「環境」のことであり、愛する愛の生活とは、私の「生き方」の事だからです。
 
 愛というものが、この宇宙のどこかに、「永遠不滅のもの」と存在しているようには思えません。
 愛は態度であり、愛は行為であり、愛は日々日常のコミュニケーション・関係の中から産み出されるものであるように思います。


○ はじめにことばありき

私達は、ひとりでは生きられません。他の人との関係の中で生きています。
 他の人との関係を生み育てていく最も重要な手掛かりは、「ことば」です。
 「ことば」と言っても、国語辞典に載ってあるものだけが言葉ではありません。
 この世に生まれ、「オギャー」と泣く第一声も言葉であり、お腹の中で、胎児が体位を変え、いわゆるおなかを蹴るのも、ことばです。関わりを生み育て、つないでいくもの全てが言葉です。

○ 左の頬を打たれたならば、右の頬を出しましょう。

言葉は、人と人の関係を生み、育て、つないでいく手掛かりであると同時に、人と人との関係をこじらせたりすることもあります。
関係を生みだす、関係をこじらす、ということを別の表現をすれば、相手の次の行動の選択肢を制限するもの、拘束するものと、いいかえることができます。
音声言語や、文字言語と言った実際に語られた内容だけでなく、顔の表情、口調、姿勢、距離、動作なども、相手の次の行動の選択肢に影響を与えます。
ですので、逆に、相手の次の行動に対して制限を与えるものを「広義のことば」ということができます。
家族療法家のポール・ワツラヴィック(ワツラウィック、Paul Watzlawick)は、「すべての行動はコミュニケーションである」と述べています。(人間コミュニケーションの語用論)
 
 そのコミュニケーションのパターンをよく観察してみると、「追従的なコミュニケーション」と「対抗的なコミュニケーション」に分けることができるように思います。

 追従が良くて、対抗が良くない訳ではないのですが、相手の発言内容に対して、常に対抗するような内容でもって返事する事が癖になってしまっている人がいます。
 
例えば、
A「この日曜日どうしてたの?見かけなかったわね。」
B「息子の少年野球の大会に応援に行っていたの。」
A「あらそう、私はね、娘の少女バレーの大会へついていったの。それで、優勝したのよ。うちの子、アタッカーでしょ。大活躍だったのよ。(と一方的に次々話し続ける・・・・)」
と言った例がそうです。
 
売り言葉に買い言葉ということがあります。
 自分が語った内容に対して、対抗的、否定的な反応が帰ってきたら、こちらもまた対抗的になりがちです。
 
 愛する愛ある暮らしを望むならば、その点によく気がついていて、左の頬を打たれても、右の頬を出せるような余裕が大切になってきます。
 
 「卓球温泉」という映画がありました。その映画での卓球のルールは、相手に打ちづらい球を打ち込んで、点数を競うのではなく、お互いに打ちやすい位置に打ちあって、できるだけラリーを続けるというものだったと思います。
 
 例え相手が、撃ち返しづらい、攻撃的なことばの球を打ってきても、こちらも攻撃的になるのではなく、撃ち返しやすい球を打ち返してあげられるようになったらいいなと思います。


○ 言葉が病理を作ったりする。

 先ほど、言葉は、次の相手の行動に影響を与える、選択肢を狭くする、拘束すると云いました。選択肢を狭くするだけでなく、身動きができないような拘束を与えたりすることがあります。
 
 例えば、ある日の女性の発言です。その日、その家では、夕飯にカレーを作ることになっていました。
 「今日は、カレーを作ることになっていたけど、私体調が悪いので、作れないわ。誰か、代わりに作ってよね。でも、誰も、私のようなおいしい味は出せないでしょうけどね。」
 
 こういう発言を聞いて、さて家族のうち誰が、今日は私が作るよ、というでしょうか?
 
 こういう発言が、朝から晩まで、一年中続いていたら、相手はどうなるでしょうか?

 「話を聞くときは、こちらを見なさい!なによその反抗的な目は!」というようなことは多々あります。


○ 汝の隣人を愛する

 愛する愛ある暮らしというのは、自分の一挙手に対して、自分の発言のひとことひとことに対して、これは相手を愛する一挙手になるだろうか、言葉になるだろうか、と気をつけ、確かめつつ、気づきつつ行うことによって生まれると思います。
 
 この一挙手に気付くこと、ひとことひとことに気付いていようとすることが、瞑想です。
 
 こちらが差し出した盃に、いつも美味しい水が注がれるとは限りません。苦い水をが注がれる時もあります。
 
 神よ、私に苦杯を差し出さないでください。・・・いえ、御心のままになされますように。